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ひとこと
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ウグイスの広場
がっちゃんてな中2
 助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
 受け身。尊敬。自発。可能。
 ラレルは使い分けが複雑で面倒くさい助動詞だということになる。ラレルの使い分けは七面倒すぎる
から少し整理して簡便にしようというわけだ。とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ
抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。ラレルより
レルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもある
かもしれない。ら抜き言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになっ
てきた。ら抜き言葉は手抜きである。では、日本語によって生きている者の一人として、君は、ら抜
き言葉を、そうなった理由を認めるのか。こう問われるならば、答えは否。そこで、そう簡単には言語
多数決の原理だの言語経済化の原理だのを受け入れれない。いや、受け入れられないのである。
 私の田舎は、島根県の離れたところにある島である。私は毎年そこに帰っているのだが、毎年帰る
たびに変わっていくのものがある。山だ。私の祖父の家は山に囲まれていて、とても、心地が良い。
しかし、私が帰るたびに山の緑が少しずつ茶色い土色に変わってきている。山を切り開いて新しい自
動車道路を作っているようだ。
 確かに、山を切り開いてアスファルトをひけば自動車の行き来も増えるし、住んでいる人達もわざわ
ざ遠回りをして買い物に行かなくてもよい。かなり便利になる。私たちにとっては好都合だ。
 しかし、私たちは山道や砂利道を無くしてしまってよいのだろうか??そりゃ、山道も砂利道もか
なり走りづらいし、ごろごろしていて歩くのも大変だ。でも、ラレルのように働き者の日本人にとっ
て、日光浴、森林浴、おいしい空気は大切なリラックスの場ではないだろうか。それに、山々を無く
してすべてが人工的なものになってしまったら、文化も何もなくなってしまう。
 今やラレルは、私たちの手抜きと勝手な理由でレルになりつつある。レル、いわゆるら抜き言葉は
アスファルトと同じように「簡便」を目的に私たちが作ったものだ。しかし、「簡便」だけを理由にラ
レルを変えてしまうというなら、これから日本語はますます変化していくだろう。確かに楽をするこ
とも必要だが今の私たちはなんでもかんでも楽をしている。「大切なものを残す」ということが、今
の日本人には必要なのではないか。