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身近な所に隠れている愛
アジサイの広場
馬のしっぽはり中3
 日本の文字に対する考え方は、文字は音でありその音はなぞりでしかないの
に、漢字はオリジナルで不変であるというものだ。文化の交流が一方的に統制
されたものから相互的で直接的なものへ移ると、言葉は紙から抜け出て音とな
る。韓国の人気歌手が紙の上での文字どおりにファンから呼ばれていないのは
、そこにファンの愛があるからである。
 
 言葉とは愛がある。さて、その愛を言葉に乗せて相手に送る時、自分が言葉
を受ける時、愛を感じさせるあるいは感じる為にはどんな対策があるだろうか
 
 友達に「彩子」という名前の女の子がいる。彼女とは前の部活で中学一年の
時に初めて知り合った子だ。皆は彼女のことを「あやこ」と勝手に思っていた
。しかし、彼女は「さいこ」という名前なのだ。ほかの友達から彼女のことを
「さいこ」と呼んでいたのを私は何度か耳にしていたが、それは、「彩子」と
いう文字をなぞって「さいこ」と呼んでいるのに過ぎないと考えていた。しか
し、本人から自分の名前は「さいこ」と読むのだと聞かされた時は、「悪いこ
とをしたな」と思った。人間の名前というものには、それなりの意味があり、
価値がある。知り合ったばかりのころは、「○○さん」と呼んでいたのに、だ
いぶ時が経つと、「△子」と呼び捨てにしたり、あだ名で呼んだりすることは
ないだろうか。この場合、呼ぶ方つまり言葉を送る方には、愛がある。その人
に対する関心がありそこに愛があるから、呼び手は言葉を簡単にしたのではな
いだろうか。そして、そこに愛を乗せて呼び手は言葉を送ったのではないだろ
うか。
 
 人間は同じ人間でも、一人一人の顔が違うというように、言葉の感じ方も受
け取り方も違う。「好きだ」と言われて、真に受ける人もいれば冗談で聞き流
す人もいる。言葉を受ける時にいろいろな捕らえ方があるのは、その人の性格
と言うのも関係してくるが、その言葉をどのように受け止めるか、つまり、個
人個人が持っている今までの生活の中で養ってきた感受性の違いであると私は
思う。
 
 言葉には愛がある。愛があるから言ってはいけないと思ったことは言わなか
ったり、相手が喜んでくれるなと感じたことは言うのだ。これらは全て、自分
が生きてきた中で得たことを基本として出てくる考えだ。言葉を送る方になっ
た時、言葉を受ける方になる時、その両方に共通して必要なことは、もっと言
葉と言うものに敏感に反応し、感受性を豊かにしていくことではないだろうか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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