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そうした中で、「戦後史」の
アジサイの広場
武照あよ高2
 「戦場のハイテク化が逆に戦場を見えなくしてしまったのです。」湾岸戦争
を指揮した、元米軍大将は言う。アメリカ軍はより優位に敵軍を攻めるために
、無人飛行機を飛ばし、敵軍の配置をリアルタイムで知るシステムを作り出し
た。大将は言う。「私はモニターに映る敵兵を示す赤い点を見ながら、軍に命
令を出していてとても嫌な気分になりました。私がしていることはゲームでは
なくて本当の戦争なのだと。忘れてはならないのは戦争のハイテク化は戦争か
ら凄惨さがなくなったかのように見せてしまうことです。戦争がいかにハイテ
クになろうとも、人が人を殺す戦場は何も変わってはいないのです。」
 
 兵器だけではない。科学技術の発達は時に、「戦場を見えなくしてきた」の
である。食品添加物は、食品を美しく見せたり、美味しくしたり、長持ちさせ
たりと食品の可能性を広げはした。しかし、数種の食品添加物が現在、人体に
有害であるとして使われなくなったというのも事実なのである。よく知られた
例ではあるが、高度経済成長時代、日本人は産業を発達させることを優先させ
たがために、人間を含めた自然環境に多大な影響を及ぼした。科学技術はよく
「魔法のランプ」に例えられる。使う人によっていかようにも変容するという
ことである。それは裏返せば科学技術の主体性はそれを使う側にあるというこ
とを示しているであろう。そのような使う側中心の科学は時に、消費者や環境
といった「使われる側」を見失うことになる。使う側中心の科学から、使われ
る側中心の科学への脱皮が求められている。
 
 科学技術が使う側中心に偏った背景として、科学と科学技術の混同があった
のではないかと私は思う。クローン技術の正否に付いて議論が成されているが
、それはクローン技術が私欲と結びついた時、危険な事態を招く可能性がある
ことに依っている。クローンも科学理論として科学的な探求が行われている限
りでは、それを使う研究者に主体性があってよいはずである。しかしそれが現
実として「使われることを前提とした」科学技術となった時、その使う者の主
体性は二の次になるべきなのである。
 
 科学と科学技術の混同をもたらしたものに「実学」としての科学という考え
方があったであろう。科学技術を生み出すための科学という考え方は、科学と
科学技術の同一視に結びついたはずである。そしてまた、現在の医学ではそれ
が今でも続いているのである。
 
 確かに科学技術は道具には違いない。であるから「使う側」の主体性は当然
あるべきである。しかし車を持っているからといって、人を跳ねてよいことに
はならない。道具には使われるという側面があるからこそ、使われる側に目を
向けなければならないのだ。そして重要なことだが、使う側を中心とすること
と、使われることを中心とすることは相反しない。ハイブリッド・カーは、環
境保護を中心とするだけでなく、「環境によい」という付加価値を生産者はつ
けることに成功している。いかに「戦場」を見ていくか、それが現在使う側中
心の科学技術に求められている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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