先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
ふだん私たちは
アジサイの広場
達樹らつ中3
 ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、十円玉、百円
玉といっている。もちろん、「丸い」「玉」と言ってもビー玉やボールのよう
な球形ではなく、円盤形のことだと誰もが認識している。しかし、コインは色
々な見方がある。水平方向から見たら薄い長方形になる。これは、ヨーロッパ
に古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関
係にある。
 
 私はよく授業中に寝ている。だからみんな私に「深夜テレビなんか見るなよ
!」と言って私が本当に深夜テレビを見ていると認識している。(そりゃ、た
まに深夜テレビを見て眠くて寝ている時もある)しかし、たまに私が寝ている
理由を、授業がつまらない、先生がむかつく、ただ単に疲れている、というふ
うに言う人もいる。しかし、私は一つだけ言われたことがないものがある。そ
れは、「昨日、徹夜で勉強してたの?」と言う言葉だ。でも、よく考えたら私
が寝ている理由はたくさんある。これもレトリックと関係がある。
 
 私はよく友達とこのような話をする。「S先生むかつかねー?」「おー、あ
いつ説教ばっかするから俺も嫌いだよー。」「あいつそんな事もすんのかよー
。「あいつさぁ、俺が寝てたら教科書で叩きやがったよー。」と、その先生の
嫌いな所がそれぞれ違っていた。っと言うことは他の生徒もその先生の嫌いな
所は違うと思う。これもレトリックと関係があるのではないだろうか。
 
 レトリック感覚は、発見的な認識には欠くことができない上に、人をできる
だけよく理解するためにこそ必要である。今後私たちが新しい視野を獲得する
ためにも、また、相互関係のためにも、レトリック感覚される時は、かつてな
かったように思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ