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ふつう死は、心臓が
アジサイの広場
隆史きね高1
 ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停
止として起こる。ところが脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格としての
発現をいっさい欠いて、いわば誰でもない身体として横たわっている。その身
体には、もはやそれを「私」だと主張する人はいない。世界戦争に象徴される
今世紀の人間の、栄光と同じように悲惨だった体験は、征服のテクノロジーの
中で非人格化した身体的存在を、「それでも人だ」と言う事から出発する実存
の思想を鍛えてきた。
 
 今、世界では羊や牛などのクローンを作ろうと研究をしている。その実験が
成功して、つい最近、羊のクローンが成功した。そのため、今日、人のクロー
ンが将来誕生する可能性が出てきたのである。しかし、出来たからと言ってす
べてが良いというわけではない。なぜなら、もし、自分のクローンが犯罪を犯
して逃亡している場合、性格も指紋も遺伝子すらいっしょなのだから何もして
ないのに捕まる可能性がある。
 
 今、脳死移植について色々と議論で問題になっているときに脳死移植が成功
した。脳死移植は本人の了解だけでなく、家族全員の賛成が必要なのである。
だから、家族で誰かが脳死と判明しても僕は移植には反対すると思う。もし、
自分がそうなったらと思うと嫌だからである。しかし、臓器が移植されないと
死んでしまうというような人もいると思うと絶対に反対だというわけにもいか
ないような気がしないわけでもない。だが、そう言う状態になったらと思うと
怖くなるのである。
 
 確かに、臓器移植がすべて悪いというわけではなく、人間の命の尊さをもっ
と考えて移植をするべきである。「悪いことそのものがあるのではない。時と
場合によって悪いことがあるのである。」というように、脳死移植すべてが悪
いのではなく、もし、失敗したときに脳死者だけでなく臓器をもらった人まで
無くなる可能性もあるからだ。だから、これからはそういう問題点を一つずつ
解決していく必要があると思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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