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清書:不思議の心 イチゴの広場
ひろりんあしゆ中1

 子供の世界は不思議に満ちている。大人にとってあたりまえのことは子供にとってすべて「不思議」であり、それらに対して大人に答えを聞いた
りすることで、自分の知識を蓄え、人生観を築いていくのである。大人に聞くといっても、「せみはなぜ鳴くか」ということだったら「せみはミン ミンと鳴くものよ。」と言っても子供は納得しないだろう。逆に「なぜなくんでしょうね。」と聞き返して、子供が自分で「お母さん、お母さんと 呼んでいるんだね」というような物語風の説明をつける方が子供は納得がいくのである。しかし、そういう説明は次第に納得がいかなくなってくる 。自然の場合神話から発展して自然科学が生まれた。たいがいの現象はそれで説明がつく。現代人はこれを好み、神話を嫌ったが、神話をまったく 無視すると自分と世界とのかかわりがなくなってしまう。「不思議」に思う気持ちというのは大切なものなのである。  

 例えば、の話である。近未来、なにもかもハイテク化されて、すべての科学現象が解明された時だ。子供が純粋に「かみなりはなんでできるの?
」と大人に聞いた時、「それはね、マイナスとマイナスの静電気が集まってできるのよ」なーんて答えたら、絶対それはそれはつまらない社会にな ると思う。「みずはなにでできてるの?」でも「水素原子2つと酸素原子1つでできてるのよ。」と言ったらそりゃもう論・外である。子供に真実 を教えるのはいいが、不思議に思う心は大事なものだ。いきなり真実を言っても、考える力(想像する力・・・なんかの教科書みたいだが。)はつ かないし、そもそも不思議に思う心がなくなる。自然の場合だったら、ハイぜーんぶゴルフ場にしまーす、ではなく、「ここの山には神様が住んで いるから壊しちゃだめだ」というような神話も大事なのだ。そういう意味では江戸時代の人たちは神話を優先していて、えらい存在だったのかもし れない。考えてみればそういう「不思議」があったからこそ科学が発達したのだ。  

 今、学校の総合的な学習、というやつで「疑問に思っていること、または興味のあること」を調べるのをやっている。私は総合の学習なんかなく
ていい、と思っているが、こういう疑問に思っていることの調べ学習は結構好きだ。でもわざわざ学校で疑問に思っていることを調べる、というこ とはみんなが「不思議の心」をなくしつつあるのだろうか。不思議に思っていることを解決すると、「そうだったのか!!」という満足感や興味が 湧いてくる。実際それを職業にしている人もいるし、そういう心は大事である。いろんなことが今明らかになってきているが、その中でも「不思議 の心」は忘れてはいけないのである。                                                      
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