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受験戦争 アジサイの広場
キウィいしわ高3 学校が総序列化されたなかで受験という競争がおこなわれると目標と競争への炊きつけは主体の欲望からではなく、受験社会のほうからやってくる 。そして人々の野心や欲望は受験システムに刻印されたシナリオの採用なりやすいのである。  

 私は、中学受験で私の中学に入った。そこの学校は幼稚園もありエスカレーター式で大学まで行ける学校だった。なので過半数は小学校からの内
部だった。多半数は、保育士や幼稚園の先生になりたくて高校受験または中学受験で大学まで一気に行くと言う人が多かった。しかし、高校は外部 に行くと言う人もやはりいた。なぜかと聞いてみると「もっと偏差値がいいとこに行きたい。」等が理由としてあった。学校もそれを悟ったか知ら ないが、特進クラスというものまで出来た。そこのクラスの人は、大学は有名な大学に入りたいとかだった。目標XX大学などが夢と言う人までい た。確かにそこのクラスにいた人はみんな自分の偏差値を黙々とあげていったが、「将来何になりたいの?」と聞くと「まだ分かんない」が多半数  

 私の友達にも大学の名前だけで大学受験している人がいる。もしそこの偏差値が高くて自分のやりたいことがあるのならば、絶対そこの大学に行
くといっていた。ある人では、「ここは有名な大学だけどやりたいこと特にないけど、ここに行く。」と言って大学に合格いた人がいる。「なんで そこの大学なの?」ときくと「親孝行」と言っていた。つまり親も自分の子供がある程度有名な大学に入るとうれしいのだ。つまりこれが、受験社  

 確かに偏差値というものさしが出来て大学のランクが分かりやすくなった。しかし、人はここの大学は自分の偏差値にあってるから勉強は程々に
しよう。とか努力したって無駄と考える人も出て来ている。しかもで自分の目標があやふやになってしまった。学校が総序列化された為に目標や競 争への焚きつけは主体の欲望からではなく受験社会からやってくるものになってしまった。だから私は、受験もいいが自分の意見もちゃんと言える 様な教育も必要だと思う。                                                    
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