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いじめ問題 アジサイ の広場
稔央 いつや

 人間は誰でも暴力的である。一見温厚そうに見える人も暴力性が全くないのではなく暴力を飼い慣らしている人だといえる。ここで言う暴力とは相手の身
体に目に見える形で危害を加えるものに限らない。攻撃したいという欲望に身をまかせることだ。現在の教育で問題なのは頭から暴力を否定することだ。暴 力はあってはならないものなのである。そのような態度は人間が暴力をふるう欲望をもった存在であることを無視したものであり、暴力を抑圧しより暴力の 問題を深刻にする可能性のあるものだ。  

 いじめは抑圧された暴力が歪んだ形で現れたものだといえる。教師が繰り返す「いじめてはいけません」は生徒達にとってはわかりきったことである。自
分がすでに知っていることを偉そうな顔で教えられることほど子供にとってうんざりすることはない。大人の世界にもいじめがあることを知っている子供に とって教師の言葉は意味を失ったお題目である。子供たちはいじめの問題を真剣に考えようとしなくなるだろう。あるいはいけないとわかっていていじめて しまった子供は自分を本気で悪い人間だと思いこみ、こんどは暴力の矛先を自分にむけるかもしれない。教師は生徒に自分たちの中にある暴力に対してどの ような態度で臨んだら良いかを教えるべきだ。  

 大昔の人間は暴力とうまくつきあっていたといえるだろう。暴力を抑圧するのではなく動物などの供え物を儀式の中で殺すことで集団の暴力をそこに集中
させた。生け贄は我々からみれば暴力を見世物にする野蛮な儀式であるが彼らは暴力を好んでいるのではない。むしろ共同体の中で暴力が野放しにされるこ とを恐れていたのだ。生け贄は暴力を飼い慣らす装置だったといえる。しかし現在の教育は大昔から受け継がれてきた人類の知恵を無駄にしている。  

 教師はいじめを撲滅することに目標を置くよりはいじめに正しく対処していくことを心がけるべきだ。少々いじめが起きても頭ごなしに否定するのではな
く正しい暴力のあり方をいじめる側にそれとなく教えるのである。たしかに教師にとって自分の担当する教室の中でいじめが起こっているのはあまり気持ち のいいものではないし、説得するのは根気のいるものである。自分のクラスでいじめが起きた教師は同僚や保護者から指導力に問題があるという烙印を押さ れるかもしれない。いじめ問題では教師の努力とそれを理解する周囲の理解がなければ教師がいじめを表面的に押さえ込みますます事態が悪化する。  

 
                                                 
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