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我が田にだけ水をひく アジサイ の広場
あおき 高3  

 ☆ こんばんは~。☆
 

 遅くなりました。・・とはいっても、今週の課題、まだ書いていません。
 

 というより、題材が見つかってません。ということで、この間送るとお約束したものを送ります。前に書いたのをパクッた箇所もあります f;;( ●・ 
▽ ・● テヘ)  

 ちょっと、恥ずかしいかも…。う~ん、読んでみて下さい。ご助言お願いします。 
 

 
 

 ☆本文☆
 

 
 

 百人集まれば百通りの答が出来る。千人寄れば千通りの考えがあり、意志がある。果たしてどれが正しいのだろうか。
 

 私は、先日自分ではない自分を見た。電車の中での出来事である。若い少年がウォークマン聞き、漫画を読みながら自分だけの世界を堪能していた。しか
し、その前には老人が立っている。当然の如く、私の正義の魂は燃え、心の中でひどく少年を非難した。“若いくせにのほほんと座っているな!!気づけ” と。だが、今朝……私は隣の人が立ったことで、初めて気づいたのだ。ドア付近に気分悪そうに立っていた人がいたということを。  

 私は恥ずかしく思った。その瞬間、私にとって当たり前だったはずのことが理想へと変貌してしまったのだ。周りの人は、その正義の魂で当たり前の様に
私を非難したことだろう。しかし、その反面こうも思う。“では、あなた達が同じ立場だったら絶対に譲ったというのか!?” 人は気に入らないものを非 難するし、非難されれば何らかの理由を返す。これは言い訳にほかならない。いや、むしろ自分を正当化することで、ポジションによってころころと変わる 自分を保っているのではなかろうか。いつもは友達と一緒に騒いでいる自分が、今日に限ってうるさいと思う。何が楽しいのかと馬鹿らしく思う。そんな時 はないだろうか。 その時の自分の気持ちや状態によって、そして立場によって人の考えはいともたやすく変わりうるのだ。自分の都合のいいように考え、 ふとした時にその矛盾に気づき、苦悩する。自分でさえも自分の心がはっきりとは分からない。そうであるとすれば、百人集まれば百通りの答えが出切ると は限らない。そう、百人集まれば二百や三百通りの答が出来るのである。  

 まして、他人の心が分からないのは当然のことである。彼ら自身でさえ、自分の心がわからないのだから。 で下さい 
                                   
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