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目は心の窓 アジサイ の広場
UZI.SMG そお 高2

 最近視線をそらす、いわゆるはにかみやが増えた。話をする時や聞く時に相手の目を見ない。こんなことはだれでも経験はあるはずだ。では視線をそらす
ことはよくないことなのか。お互い見合うことは相手を認め合うことを直接的に相手に訴えることが出来る。また、相手に信じて欲しい時にはよく「俺の目 を見ろ!」というが、これは「目は心の窓である」からだろう。そして相手の目を見ないことは相手の本心を見ようとしない、無関心の表明になるであろう 。だから人間関係において目をそらすことは非常に大きな問題だと言える。では、それでもなお視線をそらしてしまう理由とはなんであるか。  

 
 

 一つの理由として自分の目を注視されると恥ずかしさを覚えるということがある。もしくは自分の中を見透かされるような感覚、そして相手の視線に攻撃
的なものを感じてしまうともいえる。これは自分が実際感じる感覚なので主張せざるをえない。また、自分が他人の目を見つめていると「なんだよおまえ」 といわれたり、視線をそらされたりするのでこの感覚は一般的なのかもしれない。  

 
 

 また二つ目の理由に日本特有な要素を挙げてみたい。というのも学校や英会話教室などで外国人の教師と話すと、その視線に太さを感じるからだ。穴があ
くほど力強い。それから彼らは握手をよくするのだが、この二つの習慣に共通性が見られる。握手は大抵利き手で行うがこれはもともと挨拶の際に互いに武 器を持たせないようにするための作法だという。これと同じで相手が武器を取らないかどうか牽制するために常に睨みを利かせ、視線をそらさないのではな いか。このことは武道では相手から視線をそらした方が負けるということからも容易に想像できる。なぜこうなのかといえば多民族のひしめきあう土地では 戦いに負けた方は文字通り滅ぼされる運命であったからかもしれない。一方日本国内では人種や宗教に大きな相違がなく長いものには巻かれればそれでよか った。そういった処世術と身分の高貴な人とは視線を合わせてはならないという礼儀作法とを併せ持っていたからこそ視線をそらす文化が根付いたのかもし れない。  

 
 

 ともあれこのような理由があるにせよ視線をそらすというのは大きな問題であり特に国際社会において問題であろう。確かに危ない人とは目をそらした方
が安全だし、道行く人々といちいち目を見合わせていくのは不可能だ。だがコミュニケーション(相互交渉)するには互いを見つめ合わなくてはならない。 けっして目を心の鉄格子にしてはならないのだ。  

 
                                           
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