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アジサイ の広場
ほり内 ぬり 中1
 見るというのはある意味おもしろいし、またある意味では悲しい。その例と
していいのはゲームと、葬式だろう。
 
 「ぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこ。」
 
 「もうまだやっているのゲームを…………あ、よくみるとおもしろいわねー
。」
 
 「でしょでしょ。やってみる?」
 
 「……………………うん。」
 
 あれから、24時間後……………………………………………
 
 「あ、まだやっているの。」
 
 「ぜいぜい。も、もう少しで全クリよ。」
 
 のように見るか見ないかによって感じがちがうのである。
 
 「はあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあ。」
 
 「おじいちゃん。」
 
 「も、もうだめみたいじゃ。」
 
 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿
弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 
 「さあおわかれだよ。よーくやきつけるんだよ、かおを。」
 
 「おじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじい
ちゃんおじいちゃーーーーーーん。」
 
 こんな事もある。
 
 僕は有りのままに見る事が大切なのだと思う。
 
 その理由は第一に、知識に頼ると物事の正しい姿が見えなくなるからだ。例
えば、木だ。普通考えると緑の生い茂ったおおきい大木を考える。だが実際に
みたら季節によって変化する木だ。
 
 第二に、有りのままに見ると新しい発見が有るからだ。例えば、鉛筆は普通
書くものとして考える。しかし有りのままに見ると六角形を利用して、サイコ
ロを作ったりと新しい発見がある。
 
 確かに知識に頼るのも能率的でいいがやはり有りのままで見た方が新しい発
見が有るから、見る事は大事なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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