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テスト
123
rian
1779
(2623字)
 
「ああすれば、こうなる」型の社会。言い換えれば、未来が「拘束された」あるいは「漠然とした」状態である社会のことだ。真の未来とは「何が起こるかわからない」ものである。これは人間、とりわけ地位も、お金も、知識も力も、名誉ももたない子どもにとってかけがえのない、唯一無二のものだ。それが現代社会ではただちに拘束され、惜しみなく奪われている。わたしは、未来のために貯金をつくる、もしくは過去にこだわるのではなく、今この瞬間を大切に生きる考え方を大切にしたい。
第一の理由は、「今」は「今」しかないからだ。今この瞬間は、長い人生のなかで一度しか体験できない、という意味だ。普段あまり意識しないが、高校生の今という時期は今しかない。高校生の今しかできないことがたくさんある。たとえば部活帰りに友達とだらだら何時間にも及ぶ立ち話。まだ寝ないよと友達とメールや電話で励ましあいながら夜中までするテスト勉強。眠気と戦いながらの授業や寒い中のマラソン。ふらふらになりながらそれでも必死に声を張り上げ頑張る部活。その時は当たり前に楽しんだり、苦しんだりしているが、よく考えてみればあと三年もすればこんな体験は二度とできなくなるのだ。だから、しんどいことや苦しいことも全部含めて大切に、楽しんで過ごしたいと思う。一瞬一瞬を大切にすごすことはそのまま「自分を大切にする」ということにつながると思う。それはすなわち自分の未来をも大切にするということだ。刹那主義という考え方がある。過去も将来も考えず、現在の感情のままに生きようとする考え方だ。この言葉は、現在では「今さえよければ後はどうなってもいいと思うこと」という意味でも使われているが、本来は「一瞬一瞬を大切にして生きる」という意味だそうだ。本来の意味の刹那主義を大切にしていきたい。
第二の理由は、この先何が起こるかなど未来はだれにも分からないからだ。天災や人災、人生毎日何が起こるかわからない。極端に言えば自分がいつまで生きることができるか、今の生活がいつまで続くかわからないのだ。そんな中で、大切な「今」をないがしろにするのはあまりにもったいない。時には将来のため今を犠牲にしてでも頑張ることも大切だ。受験勉強などはその典型的な例だ。だが、高校受験の勉強の際、学校や塾の先生によく「いい高校に行くために勉強するのではない。自分のため、自分の将来のためだ」と言われた。受験勉強のなかでは、「テレビを観たい」「遊びに行きたい」「ゆっくり寝たい」という自分の欲望、怠けたい気持ちと戦うことを学んだ。それは私にとって、第一志望の高校に合格したことと同じくらい、もしかしたらそれ以上の価値があると思っている。目的のために自分と戦う、それは今、しんどいから学校休みたいとか、疲れたから宿題やらずに寝ちゃいたいとか、そういう自分の中の弱い部分と戦えるようになった。そういう力を養うのはやはり自分のためであって、今を犠牲にしているわけではないと思う。
たしかに計画性をもって、将来のために今を犠牲にしてでも頑張ることも大切だ。企業の広告費、第一位のパナソニックは90485百万円というデータにもそれはあらわれている。巨額の資金を投じてでもたくさんの広告をして、利益を増やす。だが広告に投じた額に比例して売り上げが増えるとは限らない。それと同じで、未来のため今を犠牲にする。だが思い描いた未来が必ずくるとは限らない。私の大好きなドラマ、ルーキーズのなかの名言に「おまえらは明日死んでも満足なくらい充実した毎日を過ごしているのか」というものがある。将来のためにせかせかと今を犠牲にする生活では、充実しているとは言えないだろう。やはり今しかない、今というこの瞬間を大切に生きていくことが大切だ。もし「明日が地球最後の日だとしたらどういうふうに過ごしたい?」と聞かれたら、わたしは迷わずこう答えたい。「普通に学校に行って、朝練して、授業受けて、休み時間は友達といっぱいしゃべって、部活して、家族とご飯を食べて、最後は『今日も楽しかった』と思いながら布団に入る。そういう普通の一日がいい。」と。そう思える毎日を過ごせているのは、今という瞬間を大切にし、楽しんでいるからだろう。
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ズミ 12.4
月
1769
(2297字)
 
この国の人々ははるかな昔から自分のことを「わ」と呼んできた。ただ、それを書き記す文字がなかった。中国から漢字が伝わる以前のことである。これは今でも「われ」「わたくし」「わたし」という形で残っている。
日本がやがて中国の王朝と交渉するようになったとき、日本の使節団は自分たちのことを「わ」と呼んだのだろう。中国側の官僚たちわこれをおもしろがって「わ」にわという漢字を当てて、この国をわのくに、この国の人をわじんと呼ぶようになった。わという字は人に委ねると書く。身を低くして相手に従うという意味である。中国文明を築いた漢民族は黄河の流れる世界の中心に住む自分たちこそ、もっとも優れた民族であるという誇りをもっていた。そこで周辺の国々をみなさげすんでその国名に侮蔑的な漢字を当てた。わのくにもわじんもそうした蔑称である。
ところが、あるとき、この国の誰かがわのくにのわを和と改めた。この人物が天才的であったのわ 和わわと同じおんでありながら、わとわまったく違う誇りたかい意味の漢字だからである。和の左側ののぎへんわ軍門に立てる標識、右のくちわ誓いの文書を入れる箱をさしている。つまり、和は敵対するもの同士が和議を結ぶという意味になる。
この人物が天才的であったもうひとつの理由は、和という字はこの国の文化の特徴をたった一字であらわしているからである。というのは、この国の生活と文化の根底には互いに対立するもの、相容れないものを和解させ、調和させる力が働いているのだが、この字はその力を暗示しているからである。
和という言葉は本来、この互いに対立するものを調和させるという意味だった。そして、明治時代に国をあげて近代化という名のせいようかにとりかかるまで、ながい間、この意味で使われてきた。和という字を「やわらぐ」「なごむ」「あえる」とも読むのわそのためである。「やわらぐ」とわ互いの敵対しんが解消すること。「なごむ」とは対立するもの同士が仲良くなること。「あえる」とわしらあえ、ごまあえのように料理でよく使う言葉だが、異なるものを混ぜ合わせてなじませること。
この国の歌を昔から和歌というのは、もともとは中国の漢詩に対して、和の国の歌、和の歌、自分たちの歌という意味だった。しかし、和歌の和は自分という古い意味を響かせながらも、そこには対立するものを和ませるというもっと大きな別の意味をもっていた。900ねんだいの葉じめに編纂された『こきんわかしゅう』の序に、へんさんの中心にいたきのつらゆきわ次のように書いている。
やまとうたは、人の心をたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもうことを、見るもの聞くものにつけて、いい出せるなり。花に鳴くうぐいす、水に住むかわずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずしてあめつちを動かし、目に見えぬおにがみをもあわれと思わせ、おとこおんなの中をもやわらげ、たけきもののふの心をも慰むるわ歌なり。
「おとこおんなの中をもやわらげ」というところに和の字が見えるが、それだけが和なのではない。「力をも入れずしてあめつちを動かし、目に見えぬおにがみをもあわれとおもわせ、おとこおんなの中をもやわらげ、たけきもののふの心をも慰むる」というくだり全体が和歌の和の働きである。和とわあめつち、おにがみ、おとこおんな、もののふのように互いに異質なもの、対立するもの、あらあらしいものを「力をも入れずして 動かし、 あわれとおもわせ、 和らげ、 慰むる」、こうした働きをいうのである。これが本来の和の姿だった。
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ズミ 11.4
月
1768
(2040字)
 
マナーの精神をもつ人とは、自制しん・こっきしん・忍耐力をもつだけでわじゅうぶんではなく、さらにまた優しさや寛容さや親切しんをもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的てきな企図を、気前よく破壊する力を発揮できる必要がある。挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって、有用性に基づく交換のわから離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。おじぎをする前のなにものにも依存することのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴわくじかれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。相手に屈服したからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが純粋贈与のおじぎである。この瞬間、目的てきせいから解き放たれ、おじぎわそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間を生みだす。挨拶のおじぎと私たちが神や仏の前で祈りを捧げる姿勢とが類似しているのは、この両者がくぎとして留保なく自己を差しだすこと、つまり純粋贈与だからである。
私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。それわバルネラブルな状態に自らをさらけだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「わたくし」を、相手は無視したり拒否したりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。こうして無条件に相手を招き入れる。私たちわおじぎをするたびに、大きな「かけ」をしているのである。
自己が有用性に基づく交換のわから離脱し、ひ ちの体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちわおそれと歓喜とを感じることができるのである。それは負い目を動機とする義務化した交換としての挨拶ではなく、純粋贈与として自己を差しだしたときに生じるのである。マナーの本性は純粋贈与であり歓待なのだ。
このような自己の境界線が溶解するひ ちの体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、畏怖を感じることはない。そのような人は自己を破壊することなく、あくまで同一てきな自己にとどまり、挨拶はたんなる形式的な社会的交換になってしまう。マナーがマニュアル化できるしんたい技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。挨拶の仕方のみならず、魅力的なわらい方さえ、マニュアル化して教えることができる。しかし、それではマナーは人間関係を円滑にするための贈与交換のしんたい技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きわしない。そしてしんたいは、自己から切り離されて、ますます自分にとって道具のようなものになってしまうだろう。これではやがてマナーは贈与交換でさえなくなる。どこまでも私たちは「空虚の感」「不満と不安の念」をいだき続けるしかない。
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ズミ 10.4
月
1767
(2196字)
 
じつわ、物理や化学の研究しゃのあいだでは抄録誌の利用率は、一部の化学者を除いて、それほど高くないのである。
そのひとつの理由として、研究しゃにとっては論文は要約だけでわやくに立たないことがあげられる。もっとも要約されたかたちの抄録は有用であり、必要である。しかし、彼自身の研究に直接に関連のある研究であれば、抄録を読んだだけで用がすむということはあり得ない。本文を読もうと決心した途端に、彼にとっては著者抄録は意味を失う。著者抄録は著者の目で見た内容抄録であり、彼は自分の目でその論文を読むのだからである。論文のなかで、著者は彼の代わりに実験や計算をやってくれている。彼は、著者とともに考えを進め、しばしば著者のやり方に不満をおぼえ、時として著者と反対の結論に到達する! それわいっしゅの創造の過程と言っていいかもしれない。こういう読者にとっては、要約は単にきっかけを与えてくれるにすぎず、その集録である抄録誌に目をさらす時間はどちらかというと空しいものと感じられる。
結果だけを必要とする読者は要約集で用が足りる。その先をめざす読者にとっては、だいいっせんの結果の羅列よりもひとつひとつの結果が得られた過程のほうが大切なことが多い。本論文を通じて著者とともに創造の過程に参画してはじめて、将来の展望がひらけるからである。
最良の要約は、あるいは、発展の機縁を生むだけのものを内蔵しているかもしれない。しかし、それを読み解くには、鉛筆を片手に本論文のなかの計算を追跡する以上の努力がいるだろう。
要約精神のごんげわ教科書である。高校の物理の教科書は、アルキメデス以来の物理学者がつみ上げてきたものの要約だ。学問は日に日に進むから、要約すべき素材は年々ふえる。教育にあてるべき若年の期間はかぎられているから、教科書のあつさわふやせない。何を捨て、何をえらぶか 二千年の物理学をいかに要約・抄録して読者をこんにちの視点に近づけるか わ教科書の筆者の最大の問題である。
そういう目で見ると、こんにちの教科書は、どれをとってみてもかなりよくできている。よくまあこんなにつめこめたと思うくらいだ。しかしそれは抄録であるがゆえに「つまらない」という宿命をもっている。抄録の集積をよみつづけることができるのは、はっきりした目的をもって何かをさがし求めている人 ロケット技術者 か、たちまちがんこうしはいに徹してその抄録の秘めているものを見ぬくことのできるえらい人だけだ。高校生はどちらでもないから、彼らにとって教科書がつまらないのは、石を投げれば下に落ちると同じぐらい自然な話である。私の知っているある大学生の話では、彼女の高校の物理の時間は、生徒がりんばんに教科書をおんどくする、P先生が「質問わありませんか」と言う、だまっていると「じゃ、次 」という調子だったそうだ。彼女が文系に進んだのは当然である。「P先生よ、地獄に落ちろ!」だ。
教科書が要約集であることは、まあ、仕方がなかろう。しかし、講義までが要約でいいという法はない。教科書の一ページの背後にわぼうだいな研究があり、それらすべては自然そのものとのつき合いから生まれている。その創造の過程を解き明かし 歴史の話をするという意味ではない 生徒をその過程に招待するのが教育というものであろう。そんなことをしたら教科書全部はとてもやれない そのとおり。教科書あるいは抄録集というものは元来そういうふうに使うべきものなのだ。
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ズミ 10.4
月
1765
(2095字)
 
キャラてきなコミュニケーションには、本来はわかりにくいのが当たり前の内面的な人格を視覚化し、わかりやすくしようという社会的要請もあると言っていい。キャラ化は言うまでもなく人格の視覚化であり、記号化という側面を持つ。わかりにくさを忌み嫌う現代社会においては、人間の内面さえも単純に記号化しないではいられないのかも知れない。考えてみれば、アニメやマンガのキャラは、制作の過程でなんらかの役割を持たされるため、他のキャラとかぶることはあり得ない。もし、キャラがかぶるようであれば、それは当然、制作途上で排除される。もちろんキャラが立たないものは論外だ。
こうやってみると、若者たちのコミュニケーションの所作は、まさにアニメ・マンガにおけるキャラ作りの状況と極めて近いと言うことができる。そして、まるで制作しゃというメタ物語てきな視点からの監視におびえるかのように、彼らは自分の立ち位置をいつも気にしながら生きているのである。
コミュニケーションとは本来、相互の人間関係強化へと向かうはずのものだ。知らない者同士がコミュニケーションを通じて深く関係を構築していくというわけだ。しかし、若者たちのキャラ・コミュニケーションでは既に相互の関係は表層的に成立してしまっている。そして、それ以上のふかいりわご法度なのである。
関係はタテに深まることわなく、その場に浮遊したまま、ヨコえヨコえと際限なく広がっていく。一見内面を吐露しあっているかに見えるブログのコミュニケーションも、いわば「ネタ」であり、それにお決まりのコメントをつけるという関係が際限なく繰り返されるのだ。今の若者たちが、表層的な関係の友だちを信じられないほど多く持っているのは、まさにそういった関係のゆえだ。ここでは、コミュニケーションそのものがキャラになっているとも言えるのである。
キャラ化はまた、お約束のコミュニケーション手法でもある。あらかじめ決められたキャラを前提に、フリとツッコミを繰り返し、笑いを作る。若者たちのコミュニケーションは、基本的にその繰り返しだ。これは、コミュニケーションを常に想定ないに収めるための技術だと言ってもいい。
アニメやマンガのキャラが決して決められた以外の振る舞いをしないように、若者たちのコミュニケーションもまた、自由闊達なそぶりをしながら、お約束の範囲を絶対に出ないように細心の注意が払われてもいるのだ。さらに言えば、笑いはコミュニケーションの広がりを防止する作用を持つ。誰かのツッコミにみんなが笑う。また誰かがツッコみ、みんなが笑う。コミュニケーションわいつもそこで終わり、次には続いていかない。これもコミュニケーションが思わぬ展開になることを防ぐ機能だと言っていい。
ここでも、若者たちは生身のコミュニケーションのあり方に対して、ある種のおびえを感じているように見える。「お約束」「役割」のないストレートなコミュニケーションや、自分の予想を超えた未知なるコミュニケーションの広がりに対する強い拒否反応があるのではないだろうか。
そう考えると、若者たちにとってのコミュニケーションとは、そもそも、「アニメやマンガのシナリオイコールお約束」の世界の中で行われる儀式のようなものなのかも知れない。だからこそ安心して、そこに「居場所」を持っていられるということなのだ。
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Re: ズミ 10.1でした タイトルまちがいです
月
1766
(23字)
 
10.1でした タイトルまちがいです
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ルピナス 12.4
月
1764
(1765字)
 
人間としてバランスのよいしんたい感受性を育てるためには、いろいろな方法があります。子どもの遊びわその一つです。たとえば「ハンカチ落とし」という遊びがあります。内側を向いて円陣を組み、「鬼」がその後ろを周回し、誰かの後ろにハンカチを落とします。それに気がつかずに一周して肩を叩かれたらその人が次の「鬼」というゲームです。
この遊びわどんな知覚を開発するためのゲームなのでしょうか。
ハンカチわ背後で落とされますから、もちろん目には見えないし、音もしません。ハンカチが空中を落下するときの空気の振動は「鬼」の騒がしい足音に比べればほとんど知覚不能でしょう。それでも勘のよい子は、ハンカチが地面に落ちる前に、自分の後ろに「鬼」がハンカチを落としたことを察知します。いったいこの子は何を感知したのでしょう。
それは「鬼」の心に浮かんだ「邪念」です。
「この子の後ろにハンカチを落としてやろう」という、「鬼」の心に一瞬きざした「悪意」を感知するのです。
別にオカルト的な話をしているのではありません。人間は誰でも緊張するとしんぱくすうが上がり、はっかんし、呼吸があさくなり、体臭が変化します。恐怖や不安だけでなく、羨望や敵意も、そのような微弱なしんたい信号を発信します(ウソ発見きわその原理を応用したものです)。
勘のよい子どもは、自分の後ろでハンカチを落とした瞬間の「鬼」の緊張がもたらすこの微弱なしんたい信号を敏感に感知することができます。
ぼくわそれを「邪念を感知した」というふうに言っただけです。
しかし、これわたいへんにすぐれたしんたい能力開発ゲームだとぼくわ思います。というのも、原始の時代においては、ぼくたちの祖先わくらい森の中で、肉食獣や敵対てきないぞくと隣り合わせて暮らしていたはずだからです。そのときに、自分を攻撃してくるものが発するわずかなしんたい信号を感知できる個体とできない個体では、どちらが生存確率が高かったか、考えるまでもありません。ですから、生き延びるためのスキルとして、その当時から、ぼくたちの祖先は、感覚を統御し、錬磨するためのエクササイズを「遊び」というかたちで子どもたちに繰り返させていたのではないでしょうか。
「かくれんぼ」というのは、おそらく起源的には狩猟のための感覚訓練であったとぼくは思います。見えないところに、見つからないように隠れているものが発信する微弱な恐怖と期待のしんたい信号、それを感知するための訓練だったのではないでしょうか。
「鬼ごっこ」にせよ「缶けり」にせよ、その種の遊びで子どもに要求されるのは、単に足が速いとか、高いところに上れるというような単純なしんたい運用能力ではなく、それよりむしろ「気配を察知する」総合的なしんたい感受性であっただろうと思います。
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ルピナス 11.4
月
1763
(1889字)
 
かつて映画について教える大学なんてなかったにもかかわらず、こんにちでは多くの大学で映画の講座があり、多くの教授がそこで教えている。その教授たちは、大学を出たにもかかわらず、映画に関しては独学をしたのである。このように、学問の新しい分野が開発される時期には、その学問をやる人たちというのは、大学を出ているといないとにかかわらず、独学をしなければならないわけである。民俗学とか文化人類学といった、歴史の浅い学問もしばしばそうである。おなじことが、じつは歴史の古い既成の学問についても言える。師匠から習ったことを、弟子が、そっくりそのまま、そのまた弟子に教えてゆくような範囲では、学問は師匠なり学校なりを必要とするものだと言えるだろうが、師匠から習ったことを一歩でも超えようとすると、そこからわどんな学者でも独学をしなければならない。なにしろ、まだ誰にもわかっていないことを学ぼうとするわけだから、独学するより仕方がないのである。その意味では、一流の学者はすべて独学しゃだ、ということも言える。
もっとも、こう言うと、それは、師匠からすでにわかっている範囲の知識を目いっぱい教えてもらった者だからこそ、それをさらに超えてゆくこともできるので、はじめから師匠を持たない者にとってわそれどころでわない、と言われるであろう。師匠からすでにわかっている範囲の知識を目いっぱい教えてもらった者は、それ以後、いくら独りで研究をすすめても、いわゆる独学しゃとは区別されるんだ、と。たしかにそれわそうである。ある種の学問は、すでにわかっている知識の概略を教えてもらうだけでもたいへんで、ある程度の知識がないとそこから先、ひとりだちして進むことわできないとすると、独学はとても無理、ということにもなる。数学とか物理学とか医学などという学問にわそういうめんが大きいと思う。しかし、学問というものわすべてがそういうものだとわかぎらない。立派な学者たちが多数、えいえいとして苦労を重ねているのに、その結果として書かれた論文には、素人にも容易にその欠陥がわかるものが多い、というような学問分野も広大にあるのである。それらの学問の中でも、部分的には素人では歯がたたない程度に研究のつみ重ねの進んでいる個所もあるが、重要な問題であるのにまだほとんど誰も研究していない、という個所もぼうだいにある。
それらの分野では、まず、中学なり高校なりを卒業すれば、あとわひとりででも、入門書、参考書、基礎文献、その分野でのだいいっせんの人びと同士の間の論争、というふうに読みすすんでゆくことわたいてい可能だと思うし、大学へなど行かなくても、どんどん勉強してゆくことができる。私がやった映画などわまさにそういう分野で、私の前にこれといって学ぶのに手間ひまかかる学者もいなかったような分野である。独学が当り前で、むしろ大学になど行っていても、そのほうが回り道であるような学問分野だったのである。
私は独学しゃなのかもしれないが、独学っていったいなんだろう?
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ルピナス 10.4
月
1762
(2025字)
 
人間にわさまざまな人がいて、その人なりにいろいろなことをやっている。それをかつての子どもたちは毎日毎日、まのあたりにしていたはずだ。そうすると、ああ、あんなこともするのか、こういうこともするのか、こういうことをしたいときにわこうすればいい、ああいうことをするとダメなんだな、といったことを次々に経験する。おかげで非常に多くのことを学習できたはずであるし、それわひとりひとりの子どもにしてみれば、興味のつきないことでもあったはずだ。
他人とのつきあい方にしても、決して一様のものではない。この人とは、こうつきあう。あの人とは、別のつきあい方をする。かつてわそれをちゃんと学ぶことができたはずだ。ところが現在は、それがほとんどできなくなってしまった。要するに、家族が家族ごとに独立して生きていくことになったので、そういうふうになってしまったのである。
集団生活を学ぶために、学校があるじゃないかという人もいるだろう。たしかに、学校に行けば、たくさんの子どもたちがいる。けれども残念ながら、教育の効果をあげるために、今の学校は学級をつくり、そこに同じ年齢の子どもだけを集めるようにしている。だから学校に行くと同じとしの子どもの姿しか目に入らない。もう少し年上になったら、どういうふうになるのだろうということを見る機会はほとんどない。もっと小さい弟、妹ぐらいの子どもたちを見ることによって、少し前まで自分がどんなふうにしていたのかを知ることもない。もう二、三年経ったら自分は、どんなふうにしたらよいのか、ということを学ぶためには、兄さん姉さんが必要である。だが、兄弟がいない子も多い。そうすると、ほかの世代から学習することもできない。
結果的にどういうことになったかといえば、かつてみんなが自然に学んでいたようなことが、ほとんど学習できなくなってしまったのである。つまり、石器時代の人々がごく自然な形で具体化していた遺伝的プログラムを、文明の進んだ現在ではほとんど具体化できなくなっているということなのだ。これは大変大きな問題ではないだろうか。
さらに皮肉なことに、昔と違って今はいろいろなものが発明され、物事が複雑になっている。学ばねばならないことが増えているわけだ。その一方でほかの人々を見る機会は、どんどんなくなってきている。ということは、どう生きていくかを学ぶことがどんどん困難になりつつあるということなのである。
また、現在では家族でしつけをしたり、行儀を教えたりするのが当たり前だと思われているが、家庭というのは、先述したようにずれた男とずれた女と、ごく数の少ない子どもしかいない、そういう社会である。その中でいったい何が学べるのか。ずれた男ひとりから、ほかの男たちがしていることを全部知ることは不可能である。女についても同じだ。
これが現状なのである。学習の遺伝的プログラムを具体化するためには、きわめて都合の悪い状態だとしか思えないではないか。
人間はたくさんの人がいる中で育っていくべきものであり、多様な人々から、いろいろなことを学び取っていくようにできている動物なのに、現代はそれができない社会になってしまっている。これは非常に困ったことだというほかわない。
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ルピナス 10.1
月
1761
(2114字)
 
コミュニケーションとは、「言葉抜きの理解」ではない。あくまで「言葉をへた理解」である。改めてこういわれると、「当たり前のことじゃないか」という気になるかもしれない。しかし実際には、このあたりを誤解し、「フィーリングで自分のことを一瞬にしてわかってもらうことこそがコミュニケーション」と思っている人が少なくない。また、たとえ言葉を介しての理解を試みたとしても、それが少しでもすれ違いを起こすと、「あ、嫌われた」とその時点でコミュニケーションをあきらめる人も多い。
では、なぜ彼らは「コミュニケーションは言葉抜きの直観的な理解」と思ってしまうのだろう。その理由の一つに、最近の社会を覆う「感情優位」の思考パターンがある。これは世代にかぎらないものだが、物事を決めるとき、客観的・冷静な判断ができず、「かわいい」「かわいそう」「なんとなく好き」といった理由で決定する傾向があるのだ。さらにこれは、日本だけの問題でもなく、国際的な世論調査でも、「分析や理屈」より「感情」が人びとの意識を決定していると指摘されている。このように、社会が「感情優位」で動くようになっている昨今だが、人びとがもっとも気にしているのは、じつは「私はこれが好きか、嫌いか」ではなく、「周りの人たちわこれが好きか、嫌いか」なのである。
こう考えると、「感情優位の社会」とわいえ、そこで優先されている「感情」は、自分自身のものですらなく、周りの人や世間の人のそれであることがわかってくる。「みんなわどう感じているのか?」「世間のかざむきは変わっていないか?」ということにせんせんきょうきょうとしながら、私たちは日々の生活を送っているのである。
この「腹の探り合い」が、従来、考えられていたコミュニケーションからほど遠いものであることは、いうまでもない。しかし、この「感情の探り合い」においては、はっきりくちにされたり、文字に書きあらわされたりする言葉より、相手の表情、文書の文体、あるいは絵文字などの記号の多少などがより重要な手がかりとなる。
相手が「私もそう思います」とくちにしながらも、あまりうれしそうでない表情をしたら、「あ、この人は気にいらないな」と、表情のほうをメッセージとして重要視する。
「それはいいですね」とメールに書かれていても、そのあとに「エクスクラメーションマーク」がなければ、「ああ、それほど喜んでいないんだ」と否定的に受け取る。コミュニケーションで何より重要であったはずの「言葉」が、信頼性を失いつつあるのだ。
そうわいっても、「言葉」を信頼せずに、相手が発する非言語的なサインや記号に過剰に注意を払い、「この人はいまどう感じているのだろう?」と当てようとするゲームがコミュニケーションのあるべき姿だとは、とても思えない。たとえ、行き違って対立があったとしても、あくまで感情ではなく「言葉」によって意思や思考を伝え、ギリギリまで理屈で理解しようとする、そんなコミュニケーションの基本をもう一度、思い出してみるべきだ。
その際、必要なのは、「私はこう感じる」、さらには「私はこう考える」という自分の意思や意見をはっきりさせることであるのは、いうまでもない。そして「言葉」「自分」「未来や社会」を、ガッチリとでなくていいから、それとなく信頼してみる。コミュニケーションはそこから始まるのではないだろうか。
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小6 フジ 12.4
月
1760
(2002字)
 
以前、私は政府の国語審議会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語の表現をどう考えるかであった。敬語が日本語にわたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
もちろん外国語にも、相手を尊敬した表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語は日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、私はぎょう天した。
じつわつい最近、私はヨーロッパのしょう旅行の途中、バスの座席に幼子を座らせようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「フォーミー」を加えたりする。
だから日本語に敬語が目立つというのは人種が上等なだけだ(!)。
さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「 させていただく」といういいかたがある。「どうぞ、どうぞ」と椅子をすすめられると「ありがとうございます。座らせていただきます」と言う。「じゃ座ります」などとは言わない。
「いっしょに帰りませんか」。はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子に座らせるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分をともとして従える。そのように自分をさせる、と考えるのである。
あくまでも相手がしゅで、自分はそれに従っているにすぎない。
これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分からくちを切る。とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのわだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。
いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろう。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつわこの相手への尊重であった。
そこで念のためだが、相手への尊重を、封建的なものとか、階級意識とかと誤解しては困る。
そもそも日本語の敬語は、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。はっせいきのころわそうである。
それがやがて敬愛の気持をあらわすようになり、やがて尊敬の気持の表現となった。
そのうえでも、尊敬するかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語が一致してしまった。
そのばあいでも、心のなかで尊敬してもいないのに敬語を使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。
だからあくまでも敬語は相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬がなくては生じない。尊敬の気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語、さっき親愛をあらわすといったものだ。
だからそもそもの敬語は女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬にみちていたのである。
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小6 フジ 11.4
月
1759
(1983字)
 
簡単にいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「どうぎ」「節義」の意味もこれにあたる。
にとべ博士がいうように、なんと厳しい「掟」であるか。なぜなら、簡単に「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければばっせられるといった「法律」とは違う。法律ならば「してわいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己の観念にもとづく道徳は人間の内面に据えられた「良心の掟」であり、その基準は個人によって違うからである。
道徳(モラル)と法律(ルール)の本質的な違いは、道徳は良心の掟である以上「不変」なものだが、法律は社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。
たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応したものに変えられるが、「嘘をつくな」「よわいものをいじめるな」といった良心の掟は、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。
では、良心の掟とされる普遍的な道徳とは何か。一般にわそれが儒教のいう「ごじょう」、すなわち「仁・義・礼・ち・信」とされている。簡単にいえば、その基本は先に少し触れたように、「人に優しくあれ」「正直であれ(嘘をつくな)」「約束を守れ」「よわいものをいじめるな」「卑怯なことをするな」「人に迷惑をかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責」に襲われるのである。
キリスト教ではこの良心の掟を「神の声」としているが、儒教は神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教を学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。そのことを示す有名な言葉が、ろうしの「てんもうかいかいそにしてもらさず」(てんどうは厳正で悪事にわ早晩かならずあくの報いがあるとの意)である。要するにぶしどうでは、個人の道徳律、じんりんの道として、現実社会の法律を超越した「てんどう」に従うことが義務づけられたのである。
ところで、ここが重要なところだが、ぶしどうは「ごじょう」の中でも、とくに「義」を最高の支柱に置いている。
なぜか。その理由の第一は「人としての正しい道」である「義」が、他のとくもくとくらべてみて、もっとも難しいものだからである。というのも、この「義」は武士のみならず、いかなる人間においても、どのような社会にあっても人の世の基本であるからだ。この「義」(正義)が守られなければ平穏な社会は築けない。これは現在の社会とてかわるものではない。歌の文句ではないが、「義理(正義)がすたれば、この世は闇」である。
それゆえにこそ為政者側の武士は、江戸時代あたりから軍人的性格より行政官としての任務をもつようになると、「庶民の手本」となることが要求され、「義」を美学として生きることが義務づけられたのである。ぶしどうでは徹底的に、何が正しいかの「義の精神」を教え、彼らの行動判断の基準をこの「義」と定め、その行動の中に「義」があるかないかを常に問われたのである。
●
小6 フジ 10.4
月
1758
(2249字)
 
では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから簡単には言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生の『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。その中で、「『美しい』と『きれい』とわちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち飽きてきます。いつまでも、あるいはいつ見ても心に響くということは少ないでしょう。
その本が文庫ぼんになっていたので、最近読み直して、若いときに、こんな難しいものをよく読んだなと思いました。そして「絵描きは美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。それは自分でそういい聞かせて、自分を駆り立てているのだと、好意的に読むことはできました。絵描きが「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ信憑性がありません。
今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きであることがたっとばれたそうです。「あの人は芸術かだから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇されて安く住むところが用意されているのだそうです。
日本では、優遇どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策として科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠なことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底すれば足りる、と考えられているようですが、わたしにわそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造しよう」とする感性と執拗な努力がりょうりんとなって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに魅せられる感性のためです。そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは惜しまれます。
「『美しい』と『きれい』とわちがう」……これは傾聴すべきことばです。「きれい」というのは「汚い」の反対語ですが、「美しい」というのわしゅうあくな部分までも含んでいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇画に描かれたキリストは、目を覆うほどのおできや腫れ物で覆われています。また金子みつはるの「だいふらんしょう」という詩も、人間が死んで腐乱していく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところわしゅうあくなものでも、心を打たれずにわおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の枯れ葉の褪せた色も美しい。「花はさかりに、つきわくまなきをのみ見るものかわ(桜の花は、満開のものだけを、つきわ満月だけを見るべきものだろうか、いやそうでわない。)」(兼好法師「徒然草」第137段)というのわこのことです。
「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてわかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くわありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という厄介なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。
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小6 フジ 10.1
月
1757
(2399字)
 
私には一つ、自分の好奇心を呼び覚ます発見があった。おちゃしつというものが時代を経る中で、ひろい書院からだんだん小さく縮んでいって、最後はひと坪だけの空間に至るという、その縮小の流れを見つけてハッとしたのだ。このおちゃしつの面積が縮小していく流れが、ある不思議な引力をもって見えたのである。
前から気になっていたことだが、懐石料理というものは、何故大きな器にホンの少々の食品を載せるのだろうか。
同様に、いけばなというものもおうおうにして、大きな器にホンのいちりんの花をすっと斜めに生けたりする。そんなことが何故か気にかかっていた。
懐石料理がほんの一口の分量を大きな器に入れてあること、それを経済要素から見れば貧乏しょうである。大きな花器に花いちりんも同じことだと思う。ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しく、それが豊かさの表現となっている。それに対していちりんの花で満足しようというのだから、これは貧乏しょうの美学というより、むしろ貧しさの美学、といったほうがいいのかもしれない。しかしおちゃしつの縮小していく流れには、ただ経済からの解釈による貧乏しょうとわ違う別の引力があるのではないか、という印象があるのだった。
懐石料理というものは、利休たちの茶の湯の世界が究められていく過程でうまれたものだ。つまりお茶を飲むために、その事前運動として料理を食べる。
私たちがいまふつうに飲む煎茶にしても、まず食事をすませたその後に、ゆっくりと飲むものである。まして茶の湯でいうお茶とは抹茶である。お茶の葉を摺って粉にしたものを、そのままお湯に溶かして飲むのだから、ずいぶん濃い。それでも薄茶とこいちゃとあって、おこいちゃというのわほとんどドロドロである。カフェインであるから、すきっぱらには相当こたえる。何か食べたあとの満たされたお腹でなければ受けとめられない。そこでお茶の前には必ずお茶受けのお菓子が出るわけで、そのお茶受けをさらに強化したものとして懐石料理があらわれてくる。
つまり食欲を満たすための食事ではなく、あくまでお茶に至るための食事であるから、分量的には最低限のものでいいわけである。しかしそうやってうまれた極小の懐石料理が、お茶という最終目標を失ったところでもなお美しい料理としてあがめられていく。そういう美意識がこの国にわあるのだった。
その極小をめでる美意識が、貧乏しょうと重なってあるのである。そもそもディテールへの愛というものが、基礎的な感性としてあるのだ。
たとえば大和心のシンボルともいわれるサクラというもの、漢字ではこれを櫻と書く。嬰という字には、まとう、めぐらす、とりまくという意味があるという。中国ではサクラの花がぐるりと木をとりまいて咲く全体像を見て櫻という文字が出来ているのだ。
それでは漢字が伝わってくる前、サクラというわおんによるよびなにわどのような意味があるのか。日本語のこくんでサクのおんのものは裂、かつ、く、そのた、いずれも「二つに分かれる」という意味を持っているという。
おそらく桜を見てサクラと発音していた古代の日本人たちは、桜の花びらを見つめていたのであろう。ご存知のように桜の花びらの先端には小さな切れ込みがあり、M字がたとなっている。花びらの先が二つに分かれる。つまり大陸の人々わぼうようとピンクの固まりに包まれた桜の木の総体を見ていた。そして列島日本人は、散った桜の花びらの一つをてのひらに載せて、その先端部分に見入っていたのである。
そもそも日本人のあがめる神さまたちは、自然の風物の樹や、石や、動物の一つ一つに宿っているわけで、自然のディテールをめでる感性はこの列島の条件として備わっていたものなのだろう。
おそらくそのような感性は、この国の人々に、自然に、無自覚的にあったのだと思う。
●
原爆記念日
I.K
1756
(233字)
 
僕は今まで 戦争や原爆について深く考えたことはなかった。たまたま今夜 いつも友達とやっているSNSで この話題を目にした。人間がものみたいだったんだなと思った。正直 意味のないことだと思った。反戦思想とかはわからないけど 生きていてこそ 人間て 価値があるような 死んだらしまいじゃねえか とか 思った。殺しアイは愚鈍すぎ。
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love=生きること
HIRO LOvE(16)
1755
(119字)
 
中学までは何となく生きてたけど、高校に入って彼氏ができてから、毎日 生きてるなって感じる。何でもがんばれるし、どんなことでもうれしぃ。愛ってすごぃとぉもぃます。
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人間関係に悩むのは
すいか
1754
(196字)
 
周囲の友人の雰囲気に合わせて、したくもない言動をしてしまうとき。
本当の自分のままで一緒にいられないなら、このグループにいても意味がないとも思う。
それなのに、ひとりになるのもイヤでなんとなくだらだら付き合っている。そんな自分がとてもつまらなく思える。
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生きるのが嫌になるとき
浪人生(18歳)
1753
(76字)
 
生きるのが嫌になるのは、勉強もせずにこんなところで書き込みをしている自分をどうにも止められないとき。
●
いのちを意識するとき
家事手伝い(19歳)
1751
(85字)
 
あと数日で10代が終わってしまうと思うと、まるで、もう少しでいのちがなくなってしまうような気持ちになります。
●
生きるのが嫌だと思うときは
楽々子
1750
(403字)
 
生きるのが嫌だと思うときは、たくさんあります。でも、どれも一時的なもので、本当に嫌だと思ったことはまだありません。
最近は、生きるのが嫌だと思っても、この気持ちは長くは続かないということがわかっているので、本気で生きるのが嫌だと思わなくなりました。免疫ができたのだと思います。
若いうちから、こうやって少しずつ免疫をつけていけば、将来、大きな壁に当たったとしても、本気で生きるのが嫌になることはないのではないかと思います。
だから、若いうちに、たくさんの苦労を克服して、生きるのが楽しいと心から思える体質になりたいと思います。
●
「どんなときに"いのち"を意識しますか?」
高校生(17歳)
1749
(666字)
 
私は、中学生のとき、不治の病にかかったと信じていたことがありました。日々、命の灯火が弱まっていくような気がして、夜が来るたびに、胸が締め付けられるような恐怖と戦いました。
そのとき、ふと疑問を感じました。人間にとって、いのちを失うことがなぜこんなにつらく、苦しいことなのだろうと…。人間にとって、いのちとは何だろうと…。
そして、私は、気づいたのです。みんな、いのちのあることがあたりまえのように思っているけれど、本当はそうではなくて、いのちのあることが奇跡なのだと。そうだとしたら、いのちを失うことを恐れるとは、なんて傲慢なのだろうと。
奇跡的に与えられているいのちだからこそ、感謝して生きる、そして、いつか、いのちの灯火が消えるときがきても、ただ静かにそのときを受け止める。私は、それ以来、そんな生き方をしたいと思うようになりました。
しばらくして、不治の病は、私の勘違いだったことがわかりましたが、悩み苦しんだ日々は、私にいのちの本質を教えてくれた大切な宝物です。
●
大人に注文したいこと
shou
1748
(1267字)
 
「最近感動したこと」を交えて書きます。
もっと自分の目線に立ってほしい。
「自分がこうだったからこうしなさい」と言うのではなく、きちんと「今の自分たち(子供)」の立場で考えて、アドバイスをしてほしい。
以前、とあるテレビ番組で「生まれつき片腕のない女の子が、義手でバイオリンを弾きこなせるようになった」という話をやっていた。
その女の子が思うように演奏できず、挫折しそうになった時、その子の父親が「自分もバイオリンを習う」と決意して一緒に練習をし、娘の意欲を取り戻させた。
そのお父さんに体のハンディキャップはなかったが、もちろんバイオリンを本格的に習ったこともなかった。
これは、子供一人に「やらせっぱなし」の親は元より、もともと自分がバイオリンを上手く弾ける親でもできない、とても勇気と誠意のあるチャレンジだったと思う。
勉強でもスポーツでも仕事でも、「自分はできるのに、なぜそんなことができないのか」とか、「自分もできない(できなかった)からできなくても仕方がない」などと考えて、子供や若者に無責任で理不尽な接し方をしている大人が多い気がする。
これは親に限らず、教師や、アルバイト先の上司などでもそうではないかと思う。
過保護にしすぎて、子供が努力したり、自分で考える余地を奪うことはもちろん良くない。それに、大人の干渉を嫌がる子供も多いかもしれない。
けれども、「子供だって他人なんだから放っておいていい」というのは大人としての責任放棄である。「子供の自己責任」なんて主張が成り立っていいはずはない。
「個人として認めること」と「他人として扱うこと」は違う。
「一人の人間として対等だから」と、腹が立ったら暴言を浴びせたり、殴ったりしてもいい、などというのは絶対に間違っている。
自称・保護者、自称・大人たちがもっと意識を改めれば、家庭での虐待や、ストレスによる労働者の自殺にも歯止めをかけることができるのではないかと思う。
●
「いのち」を意識する時
えいみ
1746
(206字)
 
私の父は、いつもと何ら変わりない様子で家を出ていき、仕事先で急性の心不全を起こし、亡くなりました。
生きて家に帰って来られなかった父のことを思うと、残った私が学校へ向かう時、母が買い物に出かける時、「どうか何事もなく帰れますように」と、今日一日の「いのち」を意識します。
●
祖父の命
さゆり
1745
(291字)
 
祖父が発病して、数年間、だんだん弱っていくのを見て、まるで命の炎がどんどん小さくなるようだと思いました。
亡くなった知らせにかけつけた時、「命がなくなった人」を初めて見ました。
それはもう祖父ではないような、でもやっぱり祖父のような不思議な感じでした。骨になって小さな壺に入った祖父。もう命はないけれど、たくさん思い出すことがあって、心の中にはいつでも生きているのだなあと思いました。
●
「いのち」よりも大事な何か
夢
1744
(130字)
 
「いのち」そのものをテーマにすることが少しおかしいと思います。
「いのち」は何かをするための「いのち」であって、人間にとって大事なのは、その何かの方ではないでしょうか。
●
終戦記念日に言うわざとらしさ
しんた
1743
(197字)
 
いのちの大切さということは、だれでの自然に感じていることだと思う。
僕は、それを8月15日の終戦記念日にわざわざ聞かれることに、何かわざとらしい感じを受けてしまう。
「戦争はいけないんだ」と言うことを求められるような優等生的なわざとらしさというか・・・。
●
NHKラジオ「いのちの対話」に向けての声募集
森川林
nane
1742
(1078字)
 
NHKより、8月15日にラジオ放送予定の「10代いのちの対話」に、10代のみなさんの声を聞きたいとのお話がありました。
言葉の森の生徒のみなさんでも、生徒以外のみなさんでも結構です。
10代のみなさんの声を「みんなの広場」にお寄せください。
http://www.mori7.net/nohara/mina
/
(締め切りは8月10日。字数は100−150字ぐらいでいいと思います。他の人の声に対するコメントなども歓迎します。コメントの字数は短くてもかまいません)
なお、場合によっては、番組の中でお電話による質問などもあるかもしれません(ほとんどないと思いますが)。
したがって、生徒のみなさんは、差し支えなければ生徒コードを入れておいてください。
====▽引用ここから====
8月15日、終戦の日の夜、10代の皆さんと語り合う『10代いのちの対話』を放送します。「"いのち"の大切さ」を中心に「平和と戦争」「生きることの意味」「人間関係の悩み」などのテーマについて、お寄せ頂いたメールやFAXをご紹介し、10代のリスナーと電話をつないで、語り合います。10代の皆さんの「本当の考え」や「悩み」をぜひ、聞かせてください。
おたより募集中
番組では、10代の皆さんからのお便りをお待ちしています。
◆「どんなときに"いのち"を意識しますか?」
◆「どうすれば戦争がなくなると思いますか?」
◆「生きるのが嫌だと思うのは、どんな時ですか?」
◆「人間関係に悩むのはどんな時ですか?」
その他、「大人に注文したいことは?」「最近、感動したことは?」
====△引用ここまで====
●
初めての書き込みです。。。
♫I♡Flute♪
172
(464字)
 
こんにちは。
私は、今年で言葉の森をはじめて3年目となります。
去年作文が書けなくなってしまい、電話で相談してみたところ、作文の丘で他の生徒の作文を参考にしながら書いてみるといい。と教えていただきました。
それからはその方法で作文を書いていたのですが、今日作文の丘を開いてみると自分の作品しか読む事ができなくなっていたので残念です。
もし、他の生徒の作文を読む事が出来る場所があったら、教えていただきたいのですが、お願いします。あと、作文を続ける秘訣?など、何かあったら教えてほしいです。
難しいことを聞いてしまってすみません。。。
(´・ω・)ノ何かあったら、アドバイスお願いします。
●
Re: 初めての書き込みです。。。
森川林
nane
173
(195字)
 
プライバシー優先ということで、自分の作品しか見られないようにしてしまいました。
当面、「森リンベスト5」のページで、それぞれの学年の5件の作文を見てください。
http://www.mori7.info/moririn/mori_best.html
今後、何か工夫をして見られるようにしたいと思います。
●
原稿
NY
asatu
170
(522字)
 
1、毎週作文を書くことで、文章を書くことが話すことと同じくらい自然なことになった。大学受験でも、学校のテストでも、文章を書けといわれてとまどうということがなくなった。また、作文の説明や評価を先生から聞くことは、学校の先生でも身内でもない大人の意見を聞くことであり、自分の視野を広げ、精神的に成長させたと思う。
2、国語力・文章力をつけることは、自分の好奇心を育て全ての学習の基盤を育てることになる。文字を読むことが苦痛だと、それだけで自分に対するチャンスが少なくなると思う。例えば、最近は新聞を読む学生が少ない。しかし、話題が多種多様なものを読むことで、自分が普段触れることのないテーマに出会い、そこで意外な興味を持つ可能性もある。
原稿書きました。参考になったら嬉しいです。
●
おすすめ10冊
森川林
nane
156
(285字)
 
ぽけっとにいっぱい
小さい小さいこいものがたり
宇宙人のいる教室
道は生きている
キャプテンはつらいぜ
杜子春・トロッコ・魔術
モモ
まちがったっていいじゃないか
君たちの生きる社会
氷川清話
中学生の自宅学習法
福翁自伝
・大きいたねと小さなたね
・世界ふしぎめぐり2年生
・はずかしかったものがたり
・日本人のこころ
・科学技術は人間をどう変えるか
●
メモ
森川林
nane
153
(287字)
 
動物との共存
山のふもとに実のなる木
収穫祭で山の神様にお供えをする
親に聞くことで、子供はその勉強を学ぼうとしているのではなく、親の人生を学ぼうとしているのです。
主題からはずれた無駄なところがあると、文章の密度が下がります。
「母は、弟のことを「ママ太郎だね」と言った。」
ここは味のある面白い会話ですが、主題からはずれた内容なので、残念ながらカットします。
作文の書き方がわかる。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森
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国語の勉強法2
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勉強への集中力
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文法の勉強
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