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Bad Communication(笑)
アジサイの広場
ペー吉うき中2
 昔から日本人は花見・雪見・月見など、ものを共に見ることによって、コミ
ュニケーションをとってきた。そこに言葉は必要なく、ただ見るだけでよかっ
た。ものは心を写し、自然と想いは伝達されていったのだ。
 
 しかし、最近は欧米文化が大量に流れ込んで来ている。もはや、昔のように
共通のものを一つおく、というのでは、心が合わなくなって来ているのだ。た
だ何かを見ているだけでなく、お互いに言葉が必要になっていく。現在は、月
や雪や花は、心のリフレクターではなく、言葉を伝える「きっかけ」になって
いるのだ。これは、欧米文化のなんでも言わなければならないという認識と、
日本の風習が交じり合った結果生まれたものであろう。人の心は、やはり言葉
で埋まるものだと私は思う。言葉は相手の思考に入り、相手に何かを認識させ
る。認識によって現在の行動が変わってくる。現実は認識に隷属し、心は言葉
で動くのだ。
 
 「人魚姫」の童話をご存知だろうか。人魚は、王子に恋し、声を代償に人間
の足を貰う。そうして王子の側にいるのはいいが、王子は別の人間と恋に堕ち
る。結果、人魚は泡となり死んでしまう。そもそもえら呼吸と肺呼吸の問題は
どうしたんだとか、人魚ははたして哺乳類なのかなど疑問は残るが、それは置
いておこう。少々こじつけ臭いことは自覚しているが、これは王子と人魚の間
で「言葉によるコミュニケーション」が成立しなかったからではないだろうか
。無言の会話はあっても、実際に言葉がないので、相手の気持ちを確認できな
かった。言葉がないので、相手の心に入り込めなかった、などが人魚の恋が叶
わなかった原因だと思われる。
 
 「百聞は一見にしかず」という諺はあるにはあるが、「一見」して物事を理
解したつもりでいても、その確証を欲しがるのが日本人の弱気なところである
。一見と一聞により、物事を見極めようとするのだ。相手の気持ちが分かった
つもりでいても、それが自分の勘違いだったら?それが単なる思い込みだった
ら?その点、言葉を貰えば相手の気持ちをはっきりと聞くことができる。視覚
だけ、聴覚だけというのは、あまり好まれないコミュニケーションの取り方だ
ろう。欧米文化との交流により、雪月花の力は薄れているのだ。