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誰かがいつか
アジサイ の広場
さやか あおべ 高1
 神経が苛立って眠れない時があるが、これは神経の疲労が肉体の疲労とのバ
ランスを欠いて独自に進行してしまった結果である。こういう場合は少し運動
をして、肉体と神経の疲労の度合いを同じにすると良いらしい。このように乖
離して世界を体験し、乖離したままそれぞれ別レベルの疲労を課せられ、その
バランスが崩れつつある点に問題があるのだ。
 
 現代社会では肉体の疲労と神経の疲労の差を広げるものが多い。例えば、旅
行なども昔は列車を乗り継いでいったので、体も疲れるし、もちろん神経も疲
れてそのぶん、「ああ、やっとここまで来たんだなあ、つかれたなあ。」とす
ごく実感があっただろう。しかし、現代では東京から軽井沢まで新幹線で30
分の時代なので、御弁当を食べている間に、もう目的地まで着いてしまい、体
の疲れがなく、あまり、「ああ、ここまできたんだなあ。」なんていう実感も
湧かなくなってしまうだろう。体は疲れないし、時代が進んでいる証拠でもあ
るが、それは、実感の喪失を生み、なんでも簡単に疲れずに出来てしまうとい
う錯覚をおこしやすくし、心の豊かさまでもを奪っていくのではないか。
 
 また、肉体の疲労なしに神経だけを使って、テレビで世界の戦争を見たりす
ることも、まったく実感が湧かず心の豊かさを奪っている。そして最近では、
テレビゲームで、パイロットになれて飛行機を操縦するというゲームまである
ので、実際の体験なしで飛行機を操縦したと錯覚し、自分は操縦することがで
きると言って飛行機をハイジャックし、本当に操縦しようとした人まで出てき
た。このように、肉体と神経の疲労の差をひろげるものが増えるにしたがって
、錯覚も増えているのだ。
 
 現代の社会は昔にくらべてもっともっと便利になっている。便利と言うこと
は確かに良いことである。しかし、「家の批評ができるのは、建築家ではなく
そこに住む人である。」と言う言葉があるように、肉体と神経の疲労が一致し
て実感を得ることにより、本当にものを理解することができるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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