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流行 アジサイの広場
たば星人あころ中2

 古典とは、決して「古いもの」という意味ではない。永遠に新しいものを古典という。時代の流行を代表するような作品は次々に現れ、沢山の人
に読まれるが、その多くはいつの間にか消えている。古典といえるものでも、ある時代ではなりを潜めているが別の時代ではもてはやされるという ことがある。作家の気質が時代の気質によく合ったりそぐわなかったりするからだ。  

 確かに、流行ったものがいつのまにか消えていることがよくある。その良い例が、「ミニ四駆」ではないだろうか。5年ほど前にかなりはやった
が、すぐブームは過ぎてしまった。僕もミニ四駆を買ってそれなりに面白かったが、すぐ飽きてしまった。なぜ飽きてしまったのだろうか。その理 由は、他人が楽しそうに遊んでいても自分にはむいていなかったからだと思う。このように自分の気質に合っていない物をいくらやってもすぐ飽き てしまうのではないのだろうか。それに比べて、古典的ゲームの「スーパーマリオワールド」等は、今やっても面白い。それは、自分の気質に合っ ているからだろう。  

 しかし、今流行っているものが悪いというわけではない。今流行っている物の中にも、自分の気質に合っている物があるかもしれないし、流行が
続いていくかもしれない。それに、流行の中にもよい物はある。現に、さっきあげた「ミニ四駆」を今でもやっている人達もいることだろう。だか ら、今流行っている物にも良いところはあるのだ。  

 大切なことは、時代に合っているとか他人が皆やっているから等ではなく、自分の気質に合っているか合っていないかの問題だと思う。「家の批
評が出来るのは、建築家ではなくそこに住む人である」という名言があるように、その流行が自分に合っているかいないかを決めるのは自分なのだ から、自分には合っていないと思うのに、やる必要はないと思うし、自分に合っていると思うのにやらない必要もないと思う。要するに  

 「友達がやっているから。」
 

 とか、
 

 「みんながやっているから。」
 

 とか言わずに、友達や時代などに左右されずに自分は自分、他人は他人と割り切って考えた方がいいと言うことだ。皆さんには、古くさいといわ
れるかもしれないが、僕は司馬遼太郎の「龍馬が行く」、「梟の城」や、夏目漱石の「吾輩は猫である」が好きだ。とても面白いと僕は思う。平成 の普通の中学生が好きなのだから、十分時代を超えた古典は、よい物だといえるのではないだろうか。                                             
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