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日々の糧と心の「糧」
アジサイの広場
横浜太郎あわか高1


 「貧」が幸福か、「富」が幸福かについては、いろいろな見方ができる。ある人は「物的に富んでいればよい」というし、またある人は「ものに
富んでいなくても心が富んでいたらよい。物に富んでいる人は、心が廃れているのが常である」という。確かに両方とも一理ある論理で、その討論
をはじめれば小田原評定になってしまうことだろう。では、具体的に双方はどんなことを主張して、比較的どちらに分があるのかを考えたい。
 


 この手の話は、「都会か田舎か」というものに似ていると思う。最も、最近は“田舎”と呼ばれる地方もだいぶ近代化してきたようだが。都会は
、近代的(このいい方は正しいのだろうか)楽しみが多い、あるいは利便性に富んでいる一方、せかせかと忙しく、どこか殺伐とした感じがある。
田舎は、ゆったりとしていて自然に囲まれているが、比較的不便な場合が多いようだ。グリム童話の「田舎のネズミと都会のネズミ」を読んでいた
だければ分かりやすいと思う。これも最初はないものねだりをするのだが、結局自分の住んでいたところが恋しくなって帰ってしまうのである。同
様に、途上国と呼ばれる“貧”の部類に入る国に住んでいる人たちは、“富”が羨ましいのかもしれない。しかし、いざ行ってみるとその忙しさに
驚くのではないだろうか。また、先進国と呼ばれる“富”の部類に入る国に住んでいる人たちは、“貧”が羨ましいのかもしれない。よく子供が「
学校なんかなければいいのに」といっているが、あれも都会の忙しさへの嫌悪感の現れであり、つまりそれからの逃避=貧へのあこがれといっても
よいのではないか。しかし、やはりいざ行ってみると、その不便さに驚くのではないだろうか。
 


 本当は、全ての人が「ものにも不便しなく、且つ心が富んでいる」生活を送れたらその社会は理想的になるだろう。しかし、我々の生活は、常に
何かを得るには何かを犠牲にしなければならない、という犠牲人生であるから、ほとんどの人が本当の幸せを味わえずにいるのが現実である。もし
上記の幸せを実現したいのなら、宗教を信じるのが最も効果的な方法である。しかし、自分も一宗教者であるが、新興宗教はいざ知らず、ほとんど
の宗教は物的な富を否定しているのではないか。従って、貧と富のどちらに分があるかなどは、一概にどちらがよいなどとはいえるはずもない。ま
ったくの愚問であった。しかし、富の立場で、毎日の生活のなかで心の富を持つためには、何だかんだいうより、たった一つ、「仕えさせず仕える
」ということ、すなわち「人に変化を求めるのではなく、自分が変わる」ということを率先して行う。これ一つで心に莫大な富を築き、幸福に大き
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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