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他者の他者として
イチゴの広場
ひろりんあしゆ中1


 人間は自分が誰であって、独自のものがあるのかどうか確信が持てないとき、「他者の他者」として初めて自分を経験する。私たちは、自分が誰
かある他人にとって意味のある存在として確認できて初めて、自分の存在を実感できるということだ。「自分がいないとあの人はだめになる」「自
分がそばにいるだけであの人は安心していられる」など、理由は何でもいいのだ。ある精神医学者は、「人は自分の行動が意味するところを他者に
知らされることによって、自分が何者であるかを教えられる」といっている。つまり、自分が自分でありうるためには、自分が他者の世界の中にあ
る一つの場所を持っているのでなければいけない、ということだ。それが他者の他者としての自分の存在ということである。 友達のKさんはイギ
リスからの帰国子女で、5年の時に転入生として来た。知らぬ間に仲が良くなっていて、クラスで一番の友なっていた。その時は、日本語はしゃべ
れるけど思わぬところで漢字を間違える、という感じで、(シャレではない!)よく私に漢字を聞いてきた。作文を書く時とか、書いていて文法に
間違いがないか、とか思えば結構数を数えるほどある。学校の「日本語教室」という特別学級に行っていたこともあって今は日本語をマスターして
いる。(たまに聞いてくることもあるが)それでついこの前、
 


 「もーホント馬場さんがおかげで日本語マス ターできたよーなもんだよ」
 


 といった。自分はただ漢字とかを教えただけなのに、自分が人の役に立った、というのはすごくうれしかった。「他者の他者」として実感できた
、というヤツである。Kさんも何も隠さず本音で話してくれるので、私にとっては必要な人だ。お互いに必要しあって「自分」を認識するのかなァ
 


 相手にとって自分は必要なのか見えないと相手が自分をどう思っているのかわからなくなり、不安になる。そういう意味で、「自分を必要として
いる人」がいるのはありがたいことなのだ。それで自分を認識できている私もありがたいのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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