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クラシック論 アジサイ の広場
クラシック しふ 中2

「食べられる」か「食べれる」か。 「見られる」か「見れる」か。後者の用法は許されるか否か。あるいは、そんなことを公に議論すること自体、有益か
どうか。  

 いわゆる「ら抜き言葉」に関心が集まっている。
 

 「どうして『ら抜き言葉』ばかり騒がれるのか」。中間報告をまとめた第二十期国語審議会の多くの委員は、不満げに語る。この二年間、多方面にわたる
議論をしてきたのに、世間の受け止め方は、まるで「ら抜き言葉」しか取り上げてこなかったようだ、という不満である。  

 確かに報告は、敬語、方言問題から情報化をめぐるさまざまな問題、国際社会への対応など多岐にわたっている。ワープロと字体の関係なども焦眉の課題
の一つだ。しかし、「ら抜き言葉」だけが際立って注目されてしまった。  

 言葉は変っているのだ。世代を重ねるうちに、様々な姿に身を転してきた。
 

 かわっていると言うより、成長してきたの方が正しいだろう。世界に存在する輝かしい文学は、その結晶と言って良い。言葉は、長い長い歴史のなかで、
成長の可能性を人々に見せてくれる。  

 ただ、新時代の言葉が発展し、旧時代の言葉が失われて行くと言うことは、非常に悲しい。
 

 現代社会では、若者達の間に、新しい言葉、『ら抜き言葉』が広がっている。
 

 英語と日本語の合成や、英語や日本語の省略、どの国の言葉にも当てはまらない、意味不明な言葉を喋るものもいる。だが、僕は、どうしてもこの言葉達
が、正しいとは思えない。新しい時代を造っていく言葉だとは思えない。  

 この言葉を使うものにはあまり近づきたくないし、本当にいたらおもいっきり引く(笑)
 

 だが、これは僕自身の意見であって、他人が使おうが使うまいが、知ったことではない。 この意見は、僕の持つ、僕の中での絶対的な意見であり、他人
をどうこう言う資格も無いし、こちらがどうこう言われるすじあいも無い。結論から言って、どうでもいい。僕は、ら抜き言葉が好きでないだけで、誰が何 を好こうと自由なのだ。大事な事は、自分の答えを見つけるということである。 最後に、『ら抜き言葉』について議論をする価値はあるか否か、という問 いに答えよう。  

 価値無し、あるわけが無い。  
                                   
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