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伝統 アジサイ の広場
日本太郎 あねひ 中1

 人間は他の人間と自由にまじわることができる。あるいは、まじわる相手を自由にえらぶことができる。それぞれの当事者の自由な選択によって成立する
人間関係だ。  

 相手方に誰をえらぶかは、自由であり、偶然である。
 

 とりわけ、現代のように、都市化がすすみ、偶然性の高い社会では、人間関係は、ふと結ばれ、そしてふと消えてゆく一時的なものであることが多い。学
校の友人にしても、それは卒業後数年間で、いつのまにかごぶさたになってしまう。すくなくとも、そのような人間関係では「ごぶさた」がゆるされるので ある。  

 しかし、そのように自由な人間関係のなかで、例外がある。それは、血縁の関係、とりわけ親子の関係である。友人だの隣人だの夫婦だのは、えらぶこと
ができるが、親子関係だけは、えらぶものではない。人が生まれた瞬間に、親子の関係は宿命的にあたえられてしまっている。こればかりは、どうにもなら ない。  

 そのうえ、人間という動物は養育期間がながい。「親はなくても子は育つ」というのも真実だけれども、親代わりになるおとながいなければ人間の乳幼児
は死んでしまう。そして、ふつうのばあい、子を育てるのは親である。親子というのは、人間にとって、のっぴきならない関係なのだ。自由にみちあふれた 現代の人間関係のなかで、親子だけはまったく別枠の関係なのである。そこでは人間関係一般についてのさまざまな原則はあてはまらない。どんな社会、ど んな時代にも、こうした特殊関係としての親子関係は生きつづけ、そのことによって、人類の歴史はつづりあわされてきた。そして、ついこのあいだまで、 そういう親子関係は、自然なものとして誰もがうけいれていた。  

 しかし、現代のひとつの特徴は、親子という関係が問題化してきた、ということであろう。むかしのように、親子は自然なスムーズな関係ではなくなって
きたのだ。新聞の身の上相談などをみても、親子間題がふえてきた。どうやって子どもを育てたらいいのでしょう。親がわたしを理解してくれません、どう したらいいのでしょう。…親子のあいだには、深い溝がうまれてきている。  

 なぜ親子が問題化してきたのか。
 

 まず、変化する社会のなかで親と子の経験がまったく異質化したという事実に注目したい。かつて、社会が伝統社会であったとき、親と子は、おなじ経験
を共有していた。子を育てながら、親は、じぶんが子どもだったころのことを回想することができたし、その子どもをこれからどんなふうに育てていったら いいか、についても確信をもつことができた。  

 『どんなふうに育てていったらいいか』といった疑問は、伝統社会の親からみれば想像を絶している。子どもの育てかたは簡単だ。じぶんが育てられたの
とおなじように育てればよい。それだけのことだ。じぶんの子どもは、将来、じぶんとおなじようになるだろう、と親は考え、また、子どもは、親とおなじ ような人間になりたい、と考えた。いわば、子は親の複製品だったのである。  社会が進歩し、変化するかぎり、この落差は避けられない。安定した関係 はグラつき、親子のあいだには緊張関係がうまれる。  

 僕は、社会の進歩が大切だと思った。
 

 第一の理由は、伝統的に教えようしても、社会の進歩が早いので、親が知らなくて教えられないと言うことがあると言うことだ。だから、教えようがない
のだ。 第二の理由は、環境問題や病気などの社会の進歩が必要になることがあるからである。そういう問題があるからこそ、社会の進歩が必要だと思う。

 伝統的に教えるのも悪いことではない。ふだんの生活で、教えることは教えるようにしていけばいいと思うが、やっぱり将来のことも考えて、社会の進歩
を優先したいと思う。                                      
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