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日本人 アジサイ の広場
○○○○ うい 高2

 古代の日本人は森に住んでいた。湿気と静寂、そして木々によって太陽の光が届かない薄ぐらい場所。それが、日本の伝統的な姿ではないだろうか。しか
し現在の日本は、見渡せども涼しげな外形を持ち、日照権が最大限に行使され、ひどく我々を健康的にする街である。そのような街では、表層的な休息と安 心を得ることはできても、本質的にはでない。我々の中に内在する遺伝子がそうさせないのだ。  

 本能に反する様な今の街並みが創られた背景には、脱亜入欧に始まる、極端なまでの西欧崇拝主義がある。当時の日本にとって、西欧の輝かしいまでの高
度な文明は、日本人の心を惹き付けるには充分すぎるほどの魅力を持っていた。そして、西欧の気候は、日本のような湿気に静寂といった日本のそれとは違 い、乾燥していて、様々な人種が入り混じった華やかさがあった。日本人は西欧の街並みを再現していき、しいてはその気候的な側面にあるものも再現して いったのである。  

 それに加えて、日本人にはポリシーがない。西欧の文化の模倣に努めた日本人からは、次第に個々人の意志が消されていった。なぜなら、模倣に必要なの
は徹底した各人の画一化だからだ。意志を孕むと模倣は模倣でなくなる。そのようにして失われたものは、現在の街並みを更に加速化させる要因になった。 事実、私にもこだわりというものがあまりない。だから日本人であるのにも関わらず、梅雨に情緒を感じず、異常な湿度に腹をたて、夏にも構わずクーラー を入れる。決して傲慢ではない・・・ポリシーがないだけなのだ。  

 健康的で太陽のサンサンと輝く街並み。誰もが理想とする外形。それは我々日本人にとっては模倣文化の副産物だ。そして、その副産物は我々日本人には
無意味で、使えないものだ。しかし、我々が本能に逆らってまでに、それを理想とし得るのは、我々独自の主体性の欠損、そしてなによりも、表層的な華や かさに目を奪われたことだ。我々の遺伝子には、目で見るものは素晴らしいとも、書き込まれているのかもしれない。  

 
                                                 
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