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無駄とも取れる時間 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 最近、自分の楽しみの定義が、自分の中で変わってきたように感じる。入試前は、「入試が終わったらゲームをやって、友達と出かけたりして遊びまくる
ぞ」というようなことを終始考えていた。しかし、ここのところ遊び、つまり自分の時間の中でゲームをしたり、出かけたり、そういうことが楽しくないわけではないが、なんとなく虚無感がその時間を漂っている感じがする。もちろん、その「遊び」を行っている時間は楽しい。しかし、周りの環境が変わり、先のことを考えると、「こんなことをやっていていいのかな」とか、遊んでしまったあとで、「ああ、また今日も時間を無駄にしてしまった」と思えてくる。自分の時間の中で、そういう『無駄と思える時間』というのは必要なのだろうか。 

 「無駄」という時間を考えたときに、まず一番初めに出てくるのが睡眠時間ではないだろうか。8時間の睡眠をとったとして、一日の1/3は寝ていること
になる。8時間あれば何ができるだろうか。かなりたくさんのことができるに違いない。その時間を何もせず、ずっと寝たままというのは「無駄」以外の何といえるだろうか。しかし、現実問題として、無駄だからといって毎日徹夜していたらどうなるか。公式(?)の記録で、丸5日間起き続けていたというのがあるらしいが、普通の人なら、3日間起き続けたらフラフラになってしまうことだろう。睡眠時間の話は極端な例だが、つまり生活において、「無駄」と思う時間は「無駄→必要な時間」と表記できると思う。 

 先日、学校の帰りに何気なしに空を見上げた。「そういえば最近、空を見上げたことなんかなかったな…」。その時の率直な感想だ。小さいときから空を
良く見上げていた。しかし最近は、そんな余裕もなかったのかな、と思ってしまった。ここ数年、長期にわたる不景気も手伝って、物事の効率化が叫ばれている。しかし時には、効率化に逆走するようであるが、こういう「空を見上げる」という、一見無駄とも取れる時間も必要なのではないだろうか。 

 「時間を無駄にしないのは時間だけだ」。フランスの作家ジュール・ルナールが残した言葉だ。確かに、時間を無駄にしないことは大切なことだ。しかし
、無駄な時間を過ごすことは、人間らしい生活を送る上で、時間を無駄にしないことと同じように、大切なことなのではないかと思う。 

 
                         
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