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清書:清書:時間 アジサイの広場
ひまわりあなつ高2時は、あるいは時間は、我々の人生がその上に展開する座標ではなく、「もの」なのである。よって時間は、我々が普通に手で触る事のできるもの、目で見、耳で聞く事の出来るものであって、それを中心に人間が腕時計をはめて宇宙をさまよっているわけではない。自分の時間と他人の時間は違うし、時間は決 

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私は全くその通りだと思う。カナダへホームステイに行った時、私は筆者の言う「時間は物である」と言う事がわかった瞬間があった。カナダでは特にやらなければならない事はなかったので、ひたすらそのホームステイ先の子供達と遊んでいた。その日もろく時の夕飯が終わり、庭で遊んでいた。思いっきり遊びおわった後、時計を見るとなんと夜の9時だった。カナダでは夜9時半くらいまで日が沈まないので全くきづかなかった。いつも時計を中心にしていた私にとって、時間を気にせず何かをすることは、いつもとちがった空間にいるような気分になった。「時間を忘れて何かをする」ということは、つまり、時間が 

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最近ではこの、時間を忘れて何かをするという事が少なくなってきているように思う。だから、私達の時間に対する感覚が、「物」ではなく、ただ生活する為の座標となっているのだろう。ではなぜ今はそうなのだろうか。よく考えてみると、私も幼い頃はよく時間を忘れて夢中で友達と遊んでいた。今それがないのは、やはり忙しいからだろう。だが、近頃では幼い子供でさえ、習い事や受験などで時間に縛られ生活している子が増えている。子供までもが「時間はた 

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父や母の子供の頃には信じられないことだろう。父や母の幼いころは、当然習い事をする子なんて少なかったから、空き地で思いっきり遊んでいたそうだし、腕時計なんてもちろんなかった。きっと、空が真っ赤に染まって、カラスが鳴き出して、ああそろそろ帰ろうかと、自然で時間を察知していたのだろう。 

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今の時代、時間を忘れられない。それは、全てが時間で動いていて、そして私達は、子供までもが、せかせかと動き回っているのだ。それはしっかりとした目的があってのことだと思うが、それで「時間」というものを勘違いしてはいけない。私達から見れば勘違いせざるおえない存在にあるが、常に時間という 

 
                        
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