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「裏切り者」と「わたし」 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1どこの世界にも裏切り者と呼ばれる人たちは存在するらしい。裏切り者というと悪いイメージがあり、僕自身裏切り者などとは呼ばれたくはない。しかし、裏切り者が歴史を変えたという話も多々ある。例えば、関が原の戦いで徳川方についた小早川氏、本能寺の変で主君織田信長に反旗を翻した明智光秀、銀貨数十枚でキリストを売ったイスカリオテのユダなどが挙げられる。彼らは、いずれも歴史に大きな変化をもたらした。彼らにとって、また我々にとって、「裏切る」という行為は何を意味するのだろうか。 

 裏切り者が出ることにより、周りの結束が固くなるというのは確かにあると思う。僕自身、小学生のころは約束等を破った者を友達と徹底攻撃して友達と
の仲を図ろうとしたし、社会的に周りを見渡しても、そういう例は多いと思う。ただ、問題なのは裏切り者に対して、自分が受けた分の損害だけを冷静に判断して、裏切り者と呼ばれた者に関わればいいのだが、ときに人間は、自分の被った損害以上の損害を被った気分になってしまう。結果、その裏切り者に対して過剰に損害に対する賠償を負わせようとする。また、裏切り者の定義の仕方や賠償のさせ方に冷静さを失わず、且つ公平に行えればよいのだが、その方法を間違えると、本来の賠償を通り越して、取り返しのつかない事態に陥ってしまうこともあるということを理解しておかなければならない。 

 また、現在世界的に日本の状態が問題になっている「イジメ」。幸せなことに、僕はまだ、自分がイジメと認識した行為を受けたり見たりしたことはない
。もちろん、嫌な思いをしたことは何度かあったが。体験がないので、体験談やイジメについての報告書などを読んだ、あるいは聞いた限りのことだが、イジメがある間、その集団は団結とまでいかないもののある程度「おそれ」という絆で結ばれているそうだ。前記した、裏切り者を責めることによって、集団としてのまとまりを保つということとよく似ている。こういう結びつき方は、確かに集団としての結合をするひとつの方法であり、また、すぐに結合できる、つまり結合しやすいものであることはわかる。だが、この集団の中で、共通の、その集団の芯を言えば、それは「おそれ」、「恐怖」しかない。結局、「恐怖」が支配する集団は、結合はするが、本来の集団としてあるべき形で結ばれた集団のような、団結はすることが出来ないはずである。 

 最近、「広く浅く」の人間関係が問題視されている。これも、人に嫌われたくない、裏切り者になりたくないという恐怖がつくり出すものだと思う。もち
ろん一概に、裏切り者によってのみ結合している集団が悪い、とは言い切れない。裏切り者が起爆剤になり、その集団、組織の活性化につながることもある。しかし、今まで僕が見てきた限りでは、裏切り者によって結ばれた集団は、結局その集団から何も得られぬまま、ただ恐怖によってのみ結合していた時期を嫌な思い出としたまま壊れてしまっている。残念ながら、人間は社会的動物で、社会的集団と関わらなければ生きていけないとされる。それでは、どうすればよいのか。アメリカの歌手、ジョン・デンバーの「人間の生き方として、『君か、それとも私』ではなくて『君と私』という基本姿勢が大事だと思う」という名言が指し示すように、本来、人間のかくあるべき集団のつくり方としては、裏切り者や嫌われ者を選出することではなく、まず今隣にいる人に、一声かけること、これだと僕は信じる。 

 
                         
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