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物の価値とお金 アジサイ の広場
ホームズ なか 中1

 数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。ヒノキをいちばん高く売るにはどうするのがよいのかが村長の
問いだった。それに対して研究員は、「玄関の表札にして売るのが有利だ」と言った。ところがそう話したら、村長はきわめて不愉快そうな顔をした。樹齢 二百年を超えた大木が、柱になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できな かったのである。つまり村長は、お金には換算できないヒノキの価値を考えたのである。僕は、物の価値を考える時には、お金には換算せずに考えるべきだ と思う。  

 第一の理由に、お金に換算せずに物事を考えると、その物の本当の良さが見つかるからである。例えば先程の「村長とヒノキ」の話だが、村長は結局、ヒ
ノキを表札にして売ることはなかった。ヒノキを表札にして売れば、かなりの金額になる。しかし、そうする場合には、ヒノキはかまぼこ板のように薄く切 られてしまう。樹齢二百年を超えた、威厳ある大木が、薄く、情けない姿になってしまうのを村長は嫌がったのだ。やはりヒノキは、柱になり、堂々と建物 を支えつづけて生きていく姿がふさわしいと、僕も思う。「二十一世紀は、人権と環境の時代だ。」なんてことがよく言われている。僕は、木にも「人権」 ならぬ「木権」があると信じている。これは木だけでなく、ほかの生き物もそうであろう。だから、ヒノキの木であれば、ヒノキの木が臨む生き方(といっ ては変だが)をさせてあげるべきだと思う。そしてそれは、薄っぺらい表札にされることなんかじゃなくて、柱になって、堂々とした姿で建物を支えていく ことだと思う。  

 第二の理由は、第一の理由と正反対のことである。それは、お金に換算して物の価値を考えると、その物の本当の価値が見えなくなることがあるからだ。
例えば、ここに一つデータを挙げてみよう。親が男の子に望む職業の、上位三つは、次のようになっている。  

 一位…公務員―――――20,9%
 

 二位…スポーツ選手――12,9%
 

 三位…医者――――――11,8%
 

  (クラレ1997年)
 

 この、一位の公務員と三位の医者に、特に注目してもらいたい。なぜ、この二つが、上位三つのなかに入っているか。これは、僕の空想だが、給料が高い
からだと思う。これは、お金に換算して物の価値を考えた結果であろう。これで、本当のものの価値を見つけられるのだろうか。  

 確かに、「地獄の沙汰も金しだい」ということわざがあり、時にはものごとをお金に換算して考えることも必要だが、前に挙げたような理由から、物の価
値を考える時は、お金に換算せずに考えた方がいいと思う。時と場合によっては、お金に換算して物の価値を考えると、「お金」が視野を狭くし、ものごと が見えなくなってしまう場合もある。うちは貧乏だが(^^ゞ、お金、お金と、決して言っていない。これからも、そんな生活をして行けたらいいなと思う。  

 
                                       
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