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俳句を理解する アジサイ の広場
由希子 あとえ 中2

 日本人は、淡泊であるかわりに持久力に欠けている。うるさいことは嫌いだという。ごてごてしているのはおもしろくないと感じる。こういう傾向が言語
に影響しているはずはない。細かいことは省略してしまう。そういう淡泊好みの通人たちが考えだした詩型が和歌であり俳句であって短いことでは世界に類 がすくない。ことに大昔から確立している和歌の形式は、日本人の感性、言語、思考を決定するほどの力を持ってきたように思われる。和歌と俳句の相違は ありながらも、実によく似ているのは、言葉のいわゆる論理に背をむけていることである。感覚的に全体を直感で把握する。「言ひおほせて何かある」そう 芭蕉はいっている。完結した表現、整いすぎた言葉は詩にならないことを、これほど端的にのべたものはすくない。「言ひおほせ」ないためには論理でも何 でも犠牲にしてかえりみない。  

 「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句がある。この俳句は、ああ夏がきたなあという気持ちを込めている。日本人は、この俳句を聞いて「蛙かあ、もう
夏だなあ」と思う。でも、欧米人はこの俳句を聞いても「それがどうしたの」と言うと思う。欧米人は日本人のように夏だとか冬だというのを俳句のように 短く歌にする習慣がないので、どうしてそんな遠回しにいう必要があるのと思っていると思う。地域によっては季語がないっていうところもあるかもしれな いし。世界の人々はちょっと考えなければいけないという俳句が嫌いという人のほうが多いと思う。  

 しかし、そのわびさびがすばらしいと思っている欧米人もいるかもしれない。今の時代、外国人が日本に国籍を移しているという人が増えてきている。日
本の文化に惚れて移り住んでいる人も少なくない。その中には俳句とか短歌とかいう日本の文化を理解できる人も多いと思う。  

 確かに、欧米人の中には俳句とか短歌を理解できるひともいると思う。しかし、大部分の人はどうしてそんなに短くて難しくするのと思っていると思う。
                                                   
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