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道徳か法か アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 高1

 法は、人民を統治する上で非常に意味のあるものである。というよりも、法自体人民を統治するために生まれてきたと思う。それで、よく「法は、道徳を
守るためにある」といわれるが、はたしてこれが正しいのだろうか。  

 例えば、順番待ちで列に並んでいたとする。つまりこれは、順番待ちのときは列に並ぶという道徳だ。そこへ、一人の人が、順番など関係ないといった顔
で割り込んできた。何か文句をいうと、きっと「割り込みはいけませんなんて、法律に書いてあるのかよ」といわれるだろう。割り込みはいけないなどとは 法律に書かれていない。皆、そういう部分の裁量は、法ではなく道徳ということになる。  

 しかし、この道徳というものも少々あいまいなもので、以前、僕のクラスの担任がイタリアへ旅行に行った際、言葉(料理名)がわからないので、万国共通(
?) のマクドナルドに入った。それで、ご丁寧に列に並んでいて、やっと順番がきたと思ったら、後ろの人が先に注文を言ってしまったそうである。そのとき、 日本との考え方の違いを理解して、負けじと自分も注文をしたそうである。つまり、道徳というものは、その国によって、あるいは同じ国であっても、その  

 では、法はどうか。これは、よっぽどひどい国家でない限り、窃盗や殺人は罰せられる、と定めてある。法にも違いはあるが、道徳や常識というものに比
べたら、断然わかりやすい。  

 が、以前こんなことがあった。沖縄の、竹富島という島に旅行に行ったときのことだ。その竹富島で驚いたことがいくつかあった。3月なのに、そこら中
を飛んでいる蚊。都会では見られなくなった蛍、満天の星空。舗装されていない道。水牛車にさんご礁。そして、カギがついていないということだった。な んでも、竹富島くらい小さな島であると、島民が皆顔見知りで、盗みなどない、という話だった。それを聞いたとき、日本の刑法には窃盗罪が定められてい るが、ここでは窃盗罪という言葉がないんだなと感じた。つまり、やはり法も、世界共通ではなく、国や地域によって、われわれが普段法に対して考えてい ることが、まったく違うこともあるのだなと思った。  

 法に関してはその特性上、おもしろい(?)
ことがある。法は一人、あるいはごく少数の人間によって定められ、国民、地方民全員がまもるものだということだ。つまり、法を定める指導者や議会が、 偏った考え方をしていると、その国の考え方自体が偏ってしまうということだ。これは、道徳や常識にはない特徴である。  

 結局、道徳というものは集団の中において、自然に定められるものであって、法はごく少数の人間が、人民を統治する上で、必要に応じて作るものだとい
うことだ。僕は、道徳に従おうが、法に従おうが、それは自由だと思う(ただし、人間として最低限やってはいけないことはやってはいけないと思うが・・・)。 大切なのは、ソクラテスの言った「わたしはアテネ人じゃない。ギリシア人でもない。わたしは世界の市民である」という名言にあるように、日本人である から日本の道徳、法。アメリカ人であるからアメリカの道徳、法。イギリス人であるから・・・etc.ではなく、世界市民として、同じ心をもてとはいわないま でも、民族がどうのということはやめ、互いに協力し合うことが、輝かしい21世紀を生きるために必要なことだと思う。道徳も法も、真髄はこれだと思う。  

 
                                           
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