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中身と余白 アジサイ の広場
潤之介 かな 中1

 どちらかといえば、私は、新聞の行間と余白の読み手であるのかも知れない。そういう意味で私は、新聞を、縁日のようなものであると見ているふしがあ
る。縁日であるから、やはりそこには、日常生活の時間の流れと異なった、さまざまな偶然の介入があった方がよい。新聞の中にそうした偶然が潜んでいる 空間を探すとすれば、それはやはり、あちこちに散らばっている情報である。  

 私は新聞などでまともな文がぎっしり書かれている所も読みがいはあると思うが、行間・余白がある方が面白いと思う。その理由は二つある。第一に、行間
は役に立つときがあるからである。これは学校にいるときにもいえることである。例えば、授業で先生が教科書どうりにチャイムが鳴るまで授業をやってい たら、ものすごく眠くなるということがあると思う。これが新聞で言うまともな中身である。だが先生が授業中に、  

 「そう言えばこの前、これに似たようなことでこういう事があったんだけど・・・・・。」
 

 などといって話をずらすと、目がさえるだろう。これが行間・余白である。ではこれがなんの役に立つかというと、例えば数学の授業で「この問題はこう
いう解き方をするんです。」と教科書の中身どうりに教えられて「はーんなるほどなるほど。」と思っていたら、社会の時間に社会の先生が、「そういうの は簡単に言えばこういう事じゃないのか?」と裏技的なことを教えてくれたりする。これは社会科という授業の中身から少しずらして、行間・余白の部分を言 ったから普段の授業では、得られなかったようなものが得られるのである。こういう事からも行間・余白の部分は大切だと思う。  

 第二の理由に、中身がぎっしり詰まっているのはあきてくるからだ。上にも述べたが、これは学校のときにもいえることである。教科書どうりに延々と授
業が続いていると、周りの人としゃべったり、ノートに落書きをしたりすることがあると思う。これは、教科書どうりに授業が続いているときは仕方の無い ことだ。なぜなら学校の授業はつまらないからである。そして、そのつまらない授業が続いているとあきてくるのは当然のことである。授業が終わると、「 ああー勉強したなー」という気にはなるが実はあまり頭には入っていないのである。しかし行間・余白の部分は、そんな大袈裟にこれでございと教えられたわ けでもないのにやけに頭に残っているものである。授業の内容は覚えてないが、雑談の部分は覚えているということが多いのは、このためである。  

 確かに内容をいち早く理解するためには、中身がぎっしり詰まっている教科書どおりというのがいいかもしれない。しかし「雑草とは、まだその美点が発
見されていない植物である」という名言のあるように、一見くだらなく見える行間・余白の部分にもすばらしい美点が隠されているのである。  

 
                                             
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