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行間 アジサイ の広場
エガ てせ 中1

 私は、行間と余白の読み手であるのかも知れない。そういう意味で私は、新聞を、月一度とか二度でなく毎日立つ縁日のようなものであると見ているふし
がある。論説記事は神社の神主さんの祝詞のようなものであり、謹聴しなければならないときは黙っておとなしく聴くが、終わったらホッとする類のもので あり、経済記事はおみくじのようなもの、政治・社会面に至っては、小屋掛け芝居のようなもので、読み手たる私はぶらぶら散歩して夜店をひやかす客のよ うな存在である。ということになると一番楽しく、ぴったりしているのはやはり広告欄という名の夜店通りかも知れない。  

 私も新聞はあまり読まない。読むとしたらテレビ欄かスポーツ欄だけだ。ほかの記事は字が多くて読む気にもならない。しかし小さな隅にある意味のない
絵や、スペースは私達の心になぜかこの記事を読みたい、ということを感じさせられる。いわゆる「行間」というやつだ。では、一体行間とは何なのか?行間 とは簡単に言うと今言いたいこと(中心)とはかけ離れた意味のないことなのだ。このような理由の場合、もう一つ、解かなければならない謎が増えてくる 。なぜ、行間は行間はこれほどまでに人の心を揺さぶるのか?  

 理由の一つとしては、みなさんは、塾などに通っていたことはあるだろう。塾の本来の目的は勉強を良く出きるようにすることだ。しかし、私達が喜んで
塾に行くためには、塾の目的とはかけ離れた「休憩」や「行き帰り」があるからだ。私だって塾に行っている。私の体験では、塾の一番の楽しみは帰り道な のだ。帰り道にコンビニに行って友達と遊んだりし…あっこのことは言ってはいけないことだったんだ…(内緒にしてネ{笑})実際にはありえないことだが 、私は、この帰り道がなかったら、絶対に塾には行かなかっただろう。  

 もう一つの理由としては、さっきとは逆に、行間がなく、私が塾に行き続けたとしよう。もちろんこの話は無理な話だ。もし行間がなかったたしたらの話
だ。私のクラスでは、数学、英語、国語の順で授業が進んでいく。数学の授業が終わった。次の時間は英語だ。私の通っている塾では、英語の時間、本文テ ストというものがある。もちろん家で本文テストの勉強はやってきてはいるが、単語の覚え間違いなどがあるかもしれない。その範囲を見ようとした。する と、  

 「ハイハイ、教科書しまって。本文テストやるよ。」
 

 と復習する暇なく担当の先生が来てしまう。これは、復習ができなくなるどころか、怒りまで感じてこないか?
 

 確かに、前の説明のように行間がないと、授業をやる時間が増える。しかし、休憩が無いと疲れて、覚えられなくならないか? 人は、勉強だけやって、頭
が良くなればいいのか? 「ぎ」・「ょ」・「う」・「か」・「ん」、この5文字が私達にとってどんなに大切なものか、ということは言うまでもない。  

 
                                           
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