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公共性を問う アジサイ の広場
太公望 うの 高1

 庭は原始社会では、集団全体の広場だった。屋内ではいこい、庭では活動的な共同生活がいとなまれたのだ。集団社会の共通の広場であった。しかし、や
がて歴史がすすみ、階級制度があらわれはじめると、権力者占有の庭が出現する。すでに一般庶民には閉ざされたものである。ふつう我々が考える「庭園」 は、この段階から始まると言っていいだろう。日本の庭がこういう封建的な伝統をつづけて固定したのに対して、はやくから近代化した西洋では、一般市民 は高層の集団住宅に住み、貴族の豪壮な庭園を開放して、公園として共同の庭を設備した。  

 日本の公共の広場などは、最近になって開放されつつあるがまだ「立入禁止」と立て看板があるところがある。日本の昔からの封建的な考えが今でも残っ
ている証拠である。平安時代などの寝殿造りなどは、その場に入って楽しむのではなくて見る事を目的にして作られたものである。芸術というものが確立さ れて洗練されたものになってくると完成したものを壊したくないという考えが浮かぶのである。そのため貴族などしか見ることができなく公共性が非常に乏 しいものになる。そのため面白いとも思わなくなるし、楽しもうとも思わなくなる。  

 最近の彫刻などの美術館で観るだけではつまらないから触ることも可能にしようというのが出て来た。これは非常にいいことである。公園も同じように自
由になんでもできて楽しめるのが必要だと思う。それでなければ公共性という意味を成さないと思う。今の社会は、公共性という言葉を盾に権力を行使して いると思う。このような古い体質を改善したほうがいいと思う。日本は、欧米諸国の公園を見習ったほうがいいと思う。テレビで向こうの国の公園を観てい ても非常に温かく明るい感じがするが日本の公園のは寂しい感じがする。  

 確かに、日本の封建制によって完成された庭園なども見るだけであれば素晴らしいものが在るが、今の時代に沿わないことである。このように考えていく
ともっと日本が早く開国していればこのようなことにならないですんだのにと私は思う。日本の公園を開放することは、みんなに様々な良い影響を与えると 思う。子供もゲームばかりせずに面白く遊べるし普通の大人でもリラックスできる場所として利用できると思う。日本は、公共性において他国に比べ遅れを 取っている。これを解決しなければ、後々社会問題になるといっても過言ではないと思う。  

 
                                                 
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