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殴りつけた拳もまたじりじりと熱をもって痛む アジサイ の広場
眠雨 うき 高1

 若者がたるんでいる、とよく言われる。時間にだらしなく、締め切りを守らず、けじめをつけず遊ぶというのが現代の「若者」のイメージらしく、またお
おむねは正しい。幼少期から、目先ばかりの我が子可愛さで甘やかされた子供の、年齢ばかりが先走ってしまった結果だ。それは「叱り」の衰退を表わして いる。叱られることによって自分の内側に芽生えたものを、先達の悪意として抱えてしまっているがゆえに、それを次の世代へ渡そうとしない教育者たち。 だが、甘やかすだけでは人は堕落していく。ここぞというところはきっちりと「叱る」ことができてこそ、人は成長することができるのだ。  

 叱ることができるようになるためには、まず第一に、「叱り」の大切さをしっかりと理解することである。叱ることは一見すると攻撃的で否定的な行為に
見える。叱られる側の子供としては、むしろ悪意の現われだと感じる。だが本当の「叱り」の根本にあるのは、慈愛である。相手の成長を思って悪い芽を早 めに摘んでおく、見えにくい愛、わかりにくい愛が、「叱り」である。腕に針を突き立てているように見えるが、実際は体のためを思って薬を注射している ようなものだ。愛あればこそ相手の嘆く姿を見たくないというのは確かにあるが、そうした目先の優しさに叱る側も流れてしまうことは、決してその子の将 来のためにはならない。例えば私の学校の終業式で、生活指導の先生が壇上に上がり、自動販売機のマナーについて話した。近頃空缶があちこちに捨てられ ている、このままでは販売機の撤去も有りうる、という話が、かなり強い語調で伝えられた。大部分の生徒たちは「俺は捨ててないのに」「そんなに強く言 わなくてもいいのに」と不満そうな顔をしていたが、この「叱り」によって、空缶を捨てた生徒の一部に多少なりとも反省を促す効果はあったろうし、捨て ていない生徒にも「捨てない方がいいのだろう」と思わせることもできたろう。一時不満に思われようとも、生徒のご機嫌とりができなかろうとも、この「 叱り」が、結果人をよりよくしていくのだ。  

 また、第二に「叱る」環境をつくることである。いつも甘い大人がちょっと声のトーンを変えて叱ったところで、そこに生まれるのは弱い力に過ぎず、下
手をすれば子供の喧燥の中に飲み込まれ、無視されていく。かといっていつもいつもドスの効いた恐い先輩や先生ばかりでは、気が滅入ってしまう。叱られ るというのは長い目で見ればプラスではあるが、若いころの思い込みが強いうちは、自分の存在が否定されたかのようなショックを受けることも少なくない 。叱り役と甘やかし役の分業があるのが、叱りやすく(妙な表現だが)叱られやすい環境である。スラムダンクというバスケットボール漫画が、以前週刊誌 で連載されていた。その主人公は妙な自信家のバスケ初心者で、ある時それまで上手くいかなかったシュートのコツを何とか掴んだ。有頂天になる彼に主将 はしかし「まだまだだ」と冷たい一言を下す。実戦前に変に助長してしまうと、いざ自分の実力が大したことが無いと知った時のショックが大きい。それを 考えれば正しい選択だったのかもしれないが、単純な彼はいたく傷ついた。そんな主人公に副主将は「いや、それでもすごい上達速度だよ」と誉める。再び 助長しかけた主人公に主将が「まだまだだ」、すかさず副主将が「すごいすごい」、それを横目にマネージャーが「アメとムチ…」と肩を竦めて呟く。表現 としてはいささか漫画的に過ぎるが、この「アメとムチ」の環境、「叱り」とそのフォローがあってこそ、有望な人間が、歩む道の中途で潰されにくいよう になる。  

 確かに、叱ることはエネルギーがいる。叱るほどに相手のことを思うのならば、叱られている相手が傷ついているのはよくわかる。わかりながら叱ること
に、罪悪感をもつ。それが疲労となって溜まっていく。しかも、相手の感謝が目に見えることはほとんどない。たいてい叱られたことの恩恵にも気づかない ままに相手は大人になり、離れていってしまう。むしろなんだこのクソジジイ、と憎まれることの方が多い。損ばかりに思える。だが、見返りを求めて誰か を愛することほど悲しいことはない。相手のことを思って、将来のために叩いた、その反動をやんわりと抱きとめられないようならば、もう叱ることはない し、できないと思ってもいいだろう。現在の「叱り」の減衰に、意志の薄弱化と共に、愛の減衰すら見るような錯覚が、恐ろしくもある。                                                    
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