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死に対して アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 中3

 人間の永遠のテーマ「死」。聖書によると、人間は人間の先祖アダムとイブが知恵の実を食べたために楽園から追い出され、それにより死ななければならな
い宿命になったという。太古の昔から、「死」は恐れられてきた。秦の始皇帝が不死の薬を探しまわったという話は有名だし、また日本の竹取物語にも不死の 薬は登場する。昔ばかりではない。現代でも、医療の発達という不死とまではいかなくても、2・300年前には化け物といわれた年齢まで生きられるようにな っている。どうしてこれほどまでに人間は死にこだわるのか。そして、死に対してどのようにすればよいのだろうか。  

 僕は去年、立て続けに三人も親戚を失った。三回も悲しい経験をしなければならないのは非常に辛かったが、それだけに他の人よりは、「死」や「人生」につ
いて深く考える機会が多かったと思う。そうして考えていると、いつも「ああ、人間って本当に小さな、弱いものなのだな」という結論にたどり着く。人類が 地球に登場して数十万年といわれる。そして文明が誕生して数万年。いまや人間は、遺伝子操作によって他の生物はもとより、自分たちを思いのままに作り 出そうとしている。しかし、たとえ作り出せたとしても、生を操ることはできるが、死を思いのままにコントロールすることはできない(もちろん、死を早 めることは可能だが・・・)。それだけ、死は難しい問題であり、人間の永遠のテーマといわれるゆえんである。  

 死についてよくもち出されるのが、戦争である。僕は幸か不幸か(多分幸なのだろうが)戦争は体験したことはないし、目の前で人が亡くなるのも見たこ
とがない。しかし実際に戦争に行った人の話を聞くと、本当に悲惨なものだということがなんとなくではあるが想像がつく。よく映画などで簡単に人が死ぬ 場面があるが、そういうものを平気で見て育ってしまうと、死は簡単なもの、という思いが固定されそうでこわい。そのせいだろうか。最近自分勝手な、命 をなんとも思ってないような事件が多いのは。  

 近頃若者を中心に、簡単に「死ね!」という人が増えている。「あんたに、人の存在を否定する権利があるのかえ」と言いたくなるが、死ねなどと平気で口
にする人にはそんなことを言ったって全く馬に念仏、馬耳東風だろう。僕自身、「死ね」などとは言わないようにしているし、それが当たり前だと思う。そ れは、死に対して向き合うとは全く別のことである。本当の、死に対して向き合うとは、ちゃかしやふざけではなく真剣に考えることである。エジソンの言 葉を借りて、少々アレンジして言うならば「死に対して真剣に考えてほしい。これは特に、若い人たちに対して言いたいことだ」。死に対して真剣に考え、そ して毎日を精一杯生きること、これが我々の人生において、最も重要なことではないだろうか。  

 
                                                 
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