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言葉の飾り オナガ の広場
はるる くあ 中1

 ことばというにはあるようでないようなもの、存在しながら、存在していないような、何か透明になってしまっているような感じがするのではないか。私
たちのことばについての認識は、ふつうその実用的な働きのほうは忘れられがちだ。普通の人が、日常的な経験を日常的なことばで表現して満足しているの に対して、「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を超える経験をもつのだろう。  

 私はときどき疑問に思うことがある。それは、昔の人達の会話だ。短歌など昔の文章を見ていると、現代の会話との違いが見えてきた。多分昔の人達は、
伝達の言葉を「詩的」な言葉にして楽しんでいたのではないだろうか。その思う理由は、その短歌の内容にある。短歌に唄われている内容は、どれも何かを 他人に伝えたいという思いがこもっている。現代では、それがただ飾りのない、素っ気無いものになってしまう。例えば、朝日の出が綺麗だと思う。そして この感動を他人に伝えることにする。ここまでは、平安の人も現代の人も同じだ。違いは、伝える手段だ。平安の人は、いかにしてその言葉に綺麗な飾りを つけるか考える。しかし、現代のほとんどの人は、効率よく伝えるのを最優先として最低限の言葉でしか伝えようとしない。今日みた日の出が綺麗だった。 と、それだけ。この最低限の言葉を使うことに慣れてしまったから、私たちは詩といったものを創造するのを難しく感じてしまうのだろう。  

 これは私の体験である。それはある、国語の短歌の授業だった。先生によると、一人一首作らなければいけないらしい。そこで私は短歌の資料集を広げて
みた。それはそれは素晴らしいものだった。どのくらいかというと、もう短歌を作る気もうせてしまうくらい。私は初めて短歌というものを真面目に詠んだ 気がした。まぁ、当然私の短歌はひどいものだったことは言うまでもない、、、、、、。確かに上手い人も中にはいたと思うが、この資料集の短歌とはやは りケタが違う。当たり前といえば当たり前なのだろうが、私はこの時、短歌など言葉に飾りをつけて伝えることが習慣だった時代を羨ましがった。  

 さて、確かに今の時代、言葉に飾りをつけるのなど、無駄といわれても仕方がないかも知れないが、「詩的」な言葉自体を否定してしまうのはあまりにも
悲しいことだと思う。時には言葉と向き合うゆとりを作るのも、今流行の癒しになるのではないだろうか。名言からは、「できあがった規則をなんとか守ろ うとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である。」を引用する。効率性を重んじて、「詩的」な言葉を排除する のではなく、昔と今は違うのだから、どう「詩的」な言葉を現代で生かしていくかが問題だと思う。  

 
                                                 
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