先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
現代人の「昔話」に対する誤解と無理解 アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 中3

 「昔話」。一見、小さな子供向けの幼稚で非科学的な話だと思われている。しかし、昔話の裏側は、大の大人が読んでも本当に理解できるのは、ほんの一握
りぐらいだと言われる。なぜ、子供でも簡単に「読める」はずの昔話がそれほどまでに難しいのであろうか。  

 それには、まず昔話の情景からみてみる必要がある。昔話、特に日本のものは、お爺さんとお婆さんがでてくることが多い。有名なところでは「桃太郎」、
「竹取物語」、「一寸法師」、「親指太郎」などが挙げられる。そのお爺さんとお婆さんの暮らし向きを見てみると、お世辞にも贅沢とは言いがたい。殆ど 90%以上が貧しいのである。さらに、先ほど例にあげた四つの物語を見ると、どれも共通して子供がいないのである。さらに、どれも信じられないような 所から子供が産まれて(?) くるのである。  

 これらを総合して考えると、まず物語の始めに出てくる、つまり主役の親(保護者)が貧しい農民であることから、これらの物語は農民の間から生まれた、
と考えるのが妥当である。また、どれも子供がいないということは、当時医学も発達していなく、子供が産めない、或いは産んでも死んでしまったため、自 分とお爺さんお婆さんとを照らし合わせたためであると考えられる。  

 「桃太郎」を例にとって考えてみよう。僕の周りでは、「桃太郎はおかしい。桃をナタで割ったときに、桃太郎も真っ二つになってしまうではないか」と
いう意見が多い。確かに、論理的に考えればそうなる。しかし、よく考えてみると、桃を割ったとき桃太郎は云々という前に、まず桃太郎が桃に入っている( ?) こと自体おかしい。ここで考えられるのは二つ。一つは、単に器は何でもよかった、たまたま桃になっただけということ。もう一つは、桃が何かを暗示して いること、である。僕は、昔話研究家ではないし、まして桃太郎研究家でもないのでハッキリ言って、言ったことがあっているかは保証できないが、あくま で一桃太郎読者として考えを述べさせてもらうと、桃というのは古くから邪気を払うものと信じられてきた。そのため、後々鬼が島で鬼退治をする桃太郎の 器となったのではないか。そして、鬼が島の鬼というのは、多分盗賊、山賊、或いは役人、領主のことだろう。自分たちから暴力、権力を使って金を奪い、 自分たちだけ甘い汁を吸っている。鬼が島という隔絶された空間は、例えば権力者であれば権力、身分などのことではないかと思う。皆、許せない気持ちは あるが、かといって逆らったらどうなるかわからない。「ヒーロー」が突然、そのような人たちを倒してくれることを願う気持ちの現われが、「桃太郎」と  

 昔話を読んでいると、気がつくことがある。「この昔話、誰がいつ作ったのだろうか」って。最近導き出した答えは、「昔話は誰かが頭で考えたのではな
い。長い間の経験が作り上げたものだ」ということだ。まさに「経験は最大の教師である」という名言がそのまま当てはまる。始めに僕は「…大人でも理解 するのは難しい。」と書いた。難しい。実に難しい。その人たちの経験を理解できるか。士農工商の身分制度も、飢える人もいない今の日本で、その人たち の苦労、感情、経験を理解できるか。昔話を単なる子供向けの幼稚な話で終わらせないために、我々がしなければならないこと。それは、現代の人間は頭脳 的で、昔の人は知恵が無い、という概念を捨てること。それと、他を理解し、問題を突き詰めて考えることである。  

 
                                               
ホームページ