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神仏の喝 アジサイ の広場
拓馬 ねき 中3

 昔話の研究をすることは、そこに隠された民衆の知恵のようなものを感じとることになり、現代に生きるわれわれに対しても思いがけぬ示唆を与えてくれ
る。  

 老人の知恵は思考の逆転の必要性を示している。このような思い切った発想こそ、われわれが老人のことを考えるときに必要なことではなかろうか。老人
は何もできない、能率的でないから駄目だと皆は言う。これを逆転して、老人は何もしないし非能率的だから価値があると考えてみてはどうだろう。  

 昔話はそれと同様に公的で常識的な考えを裏から補償する傾向をもっていると思われる。従って、それは思いがけない解決の道を示唆するのである。
 

 また、昔話には、類話がたくさんあり、その多様性は人生の問題の解決法の多様性を示している。これでなければ、という固いことではなく、人によって
いろいろの生き方があり、それはそれなりに面白いものだ、と昔話の知恵はわれわれに語りかけてくるのである。このように昔話を読むことは、現代のわれ われの生き方と直接につながってくるのである。  

 一つの事柄を見、そして行動しようとしたとき、一般的に見て「正しいこと」があり、それは、誰が見ても当たり前のことである。しかし、ただそれだけ
が適した対応法かと言えば、そうでもない。「正しい」ことの上に、何本もの「道」がある。その「道」を見つけるためのカギは、主に自らの「経験」が伴うも のである。例えば、テレビが壊れて映らない。そんなときは、修理に出すのが一般的な「正しいこと」である。しかし、実際のところ、「テレビの映りが悪いと きのあなたの対処法はナンジャラホイ」アンケートをとれば、おそらく、「テレビのてっぺん及びサイドに、神仏の喝を入れる」という意見が全体の82%という 圧倒的多数を占めるだろう。これが、正しいことの上にある、「道」のうちの代表的な一本である。他にも、「己の本能のままに機械をいじる(危険)」とか、「 仙気を流す(ある意味危険)」などの意見が出るだろう。そのときに、それらの「道」を見出せるようになるには、いろいろな人生においての「経験」を積まなけ ればならない。これは、テレビのような物理的なものに限らず、人と人の精神的なものにもあるので、かなり重要なことなのである。  

 また、「道」を見つける他の方法は、沢山の事々を、一つの視点だけで見ない、ということも挙がる。人は「正しい」とか「合理的」だとか思っていると、他の
、その人から見れば「正しくない」事を、最初から否定する、という本能を持っている。故に、そのときの人は、まこと一面的な視点しか持たなくなる。これ は、非常に危険な状態だ。なぜなら、最初から否定することはすなわち、他の人間を徹底的に拒絶することだからである。「こういうとき、こうすれば良い」 という他人の忠告に対し、理由も聞かずに「いや、違う」というのだ。傍から見て、これほどむかつくことはそうそうない。それが続くと、その人はやがて孤 立化し、人間不信に陥る。だから、自分=正しい=唯一無二という考えが根づくことは、避けなければならない。多面的な考えなくして、「道」は切り開けな いのである。  

 「合理主義」ということは、不可欠なものである。「理にかなったこと」が無ければ、やっていけない。元来、人間とは永遠の矛盾に耐えられるようにはでき
ていない。だから、これまで絶対王政の崩壊や、憲法の制定、改廃が行われてきたのである。だがその反面、人間は「徹底的合理主義」にも耐えられないとい う困ったチャンなのである。そこで大切なのは、決して、合理主義を根づくわけでもなく、かといって、非合理主義を養うことでもない。答えは別の、まっ たく別の自分の信じるべき新しい「道」を切り開くことにある。そしてその「道」は十人十色であることを知り、それぞれをも認め合う必要がある。「あなたの言 うことに賛成はできないが、あなたにそれを言う権利があることは、私は全力を持って守るつもりだ。」と、昔のあるエライ人はいっていた。そう、自分の意 見、信念は誰もが違うものである。かといって、自分と意見の違う者を弾圧して自分の意見を通すことは、あってはならないことだ。人間は、「人」の「間」と かく。違う人、違う意見のものがたくさんいてそしてその間で、人は生きているのである。だから、私は確固とした己の意見をもち、そして、他の意見の見 方を考えていきたいと思う。  

 
                                           
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