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社会人としての自由 アジサイ の広場
UZI.SMG そお 高1

 レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンのいう「機械」、ヴァレリーのいう「方法」とは結局のところ「社会」のことではないか。社会というのは多数の個人があ
る掟に従い、互いにある程度の譲歩をし合って生きていくシステムのことだ。この組織の中にあっては個人は個人としてではなく社会人として行動すること を強いられ、決して自分勝手に行動することは許されない。であるから社会の中で生きている時点で原則的に、真の意味での自由・個性など存在しないのだ。 皮肉を言えば、このロックバンドの人たちはそうした真の自由を求め現行の社会にアゲンストしているくせに、社会の中で生きている。だいたい、真の自由 を求めるのであれば出家でもして勝手に社会を捨てて、勝手に自給自足でもして自由に生きればよいではないか。  

 
 

 確かに、社会にも問題はあるだろう。例えばWWⅡにおいて、近代社会の行き着いた最終地点である全体主義のように、国家を支配していた政治家たちでも
理解しきれていないような見えざる力によって、じわじわと自らの首をしめてしまう恐ろしい社会もある。だから、非難したり、否定したりすることはよい ことかもしれない。それで社会が良い方向に向くのなら。だが、近代社会においてはそうしたアゲンストがあったにもかかわらず結局手を打てなかった。た だ、現代社会では、マスコミの力・民衆の力が社会に反映されるように、社会の掟に定められてはいる。  

 
 

 しかし、私はやはり現代社会もまた近代社会のような結末を迎えると危惧する。すなわち、たとえ民衆の意見が社会の中に反映されようと、民衆がそもそ
も愚であり見当違いな事を騒ぎ立てるという危険性があるということだ。例えば、日本の選挙では農村部の人たちは揃いにそろって自民党に入れるとか、投 票所には行くものの顔を見て決めるといった、愚にもつかぬ事をする人が相当数いる。これではせっかくの普選も意味をなさないのではないか? また、身近 な話では学校がある。学校というのはどう考えても社会の縮図であり、事実社会人養成所である。にもかかわらず個性を育てる、自由放任主義といった宣伝 文句をうたい、皆それにだまされる。たとえ制服がなくて服装は自由、頭髪も自由、携帯電話も自由などといっても、学校の本質的なところである、時間割 から教師から学習内容といったありとあらゆるものが制度化されている。ましてや、受験校ともなれば受験勉強以外の純粋な学問に励めば注意され「打たれ る」。しかし、誰もこういう本質的な核心には抗議せずやたらと表面的な自由のみを求める。  

 
 

 社会というのは個性を嫌う。変なやつは嫌がられる。自分もときどき授業中その他において外れたことを言うが、そのたびに猛攻を受け陥落しそうになる
。そんなこともあり、最近社会に埋没しそうで苦しみ悩んでいる。しかし、そうした猛攻を受けてもなんとも感じない、きわめて個性的な人々がいる。そい つらは天才と呼ばれる。天才は社会のはみ出し者、偏屈者である。そして、社会にいながらも強烈な個性をあらわすものもいるが、社会に生きていると宿命 的に短命である。「出る杭は抜かれる」、歴史の妙とも言うべきか。とにかく、社会は普通な人、一般的・常識的な事を好む。現代社会では科学技術に頼って いるが、科学は一般性の塊だ。逆にいえば、だからこそ科学は社会に受け入れられるのだろう。そういうことを考えると、社会というのは大衆の一般的な思 想によって動かされているといえよう。つまり、大衆が愚劣では社会もそれにしたがって劣悪な道に進んでしまうのだ。確かに、間違った社会にアゲンスト するのは良いが、それにはそれ相応の覚悟、考え抜かれたれっきとした思想を伴わねばならない。ただアゲンストするだけでは冒頭で述べたような矛盾だけ が空回りしてしまう。結局のところ求めるべきものは、最善の社会であり、その中における最善の自由であり、彼らの言うところのあらゆる権力・制度への否 定、つまりは社会というものからの自由ではないのである。  

 
                                           
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