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嗚呼素晴らしい日本語よ アジサイ の広場
幸子 あさも 中3 このところ日本では園芸が大はやりであるが、花木や草花の名称が大変な勢いで外来語に置き換えられている。旧来の日本の花の名は美しく風雅なものがほ とんどであるのに、たとえば彼岸花の類はリコリス、胡蝶蘭はファレノリプスといった具合に、年ごとに言い換え数が増えていく。ワタシ的には、ふぁれのりぷ すなどというより、「胡蝶蘭」という方がどことなく難しそうな漢字を使っていて、どことなく貴族ちっくで、いい感じである。ワタシの美意識でいくと、どう 考えても胡蝶蘭の方がふぁれのりぷすなどより数段上である。安易に外来語等に変えてしまわず、もっとじゃぱんのわーどをゆーずすべきではないか。  

 そのためには、かっこつけて英語読みしてみたりしないで、ある日本語はまんま使ってみる。初めから英語蘭語で入ってきた日本に存在しなかったカステ
ラやビードロなどならいいが、もともと日本使われていた 桃色や、戸までピンクやドアと言われるようになったのはどういうことだろうか。確かにモモイロ、トなどと言うよりもピンク、ドアと言った方が語呂がい  

 一体全体、カタカナ語をやったらめったら使いまくって、どこがいいというのか。マッ○やモ△でてりやきバーガーを頼むとレジのおねーさんは「ワンてりプ
リーズ!」と叫ぶじだいなのである。(心の声)「…てりやきバーガーひとつー!」でいいじゃないか。長くていやなら、「てりやきひとつ!」これで十分じゃな いか。「てりやきひとつ」の何処に不満があろうか?否!  

 確かにカタカナ語はかっこよさげに聞こえて、語呂もいいが、本来の日本語の良さを見直していくべきだと思う。いくらカタカナにしたって、そのものの本質
は変わらないではないか。変わらないのだったら、どこにワザワザ歴史のれの字もない(?)英語にする必要があるのだろうか。日本○千年の歴史の中で、わ れらの祖先たちが使いやすいように使いやすいようにと工夫してきたものではなかったのか。  

 
                                                 
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