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花見 ウグイス の広場
潤之介 かな 中1

 花見には、町内や職域といった小共同体の仲間が、つれだって出かけることが多い。そこで小共同体同士がいがみあいを起こしがちだ。花見どきのケン力
で団体客の乱闘が多いのは、そのためであろう。 だいたい日本人は「見る」ということに重要な意味を与える。百聞は一見にしかずということわざの示す とおり、いくら本を読み頭で理解していても、現場を見たものには、たちうちできないのだ。 さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する 。若い恋人同士が告白をするとき、西洋人のように、「I、love、you」などとはけっしていわない。そんな言葉を口に出さなくても、満月を仰ぎ見 て、「いいお月さんですね」と言い、二人でじっと空を見上げる。それだけで、意思は十分通じるのだ。  

 私は共通のものを見る文化は大切だと思う。その理由は二つある。一つは、西洋は会話が止まると白々しい空気が漂うが、日本のように、何か一言いって
、共通のものを見ていれば、何も喋らなくても、心は通じるし、その間に他の話題も考える事もできる。それに、「何か喋らなくちゃ」と、気を使う必要も ないので、落ち着いて共通のものを見ていれば言いのである。だがあまり喋らないのは他の場面でマイナスになったりする。例えばバレンタインの時、女子 が男子に向かって、チョコを渡す時に、絶対「これが私の気持ち(はあと)」などと馬鹿正直には言わないだろう。普通は、手紙か何かを添えて、机に入れた りするものである。仮に上のような方法で渡したとしても、相手の方は、戸惑って「あ・・うん・・ありがとう・・・・。」くらいしか言わないと思う。し かしあまり喋らずに、他のもので心を通じあわせるのは日本独得の文化なので、そういう文化は持っておいた方が言いと思う。  

 二つ目の理由は、共通のものを見るという事は、身分の差があまり関係ないと言う事だからだ。偉い人が見る桜と普通の人が見る桜では見え方が違うわけ
でもない。それに偉い人だけに見られたいという桜があったとしたら、そんな桜は誰も見たくないだろう。「人生に意味はない。あるのは欲望だけだ。欲望 があるからこそバラはバラらしく咲いていられる。」これは、ある喜劇俳優が言っていた言葉だが、そのままの事を桜にも言える。桜にあるのは欲望だけだ 。生きたいと言う欲望があるからこそ、桜はあんなきれいな花を咲かせている。それを偉い人だけが見るというのはなにかずるい。普通の人にだってみる権 利はあるはずである。共通に見るものに、身分の差を持ち込むのはどうにも変なものである。  

 確かに西洋のように、ぺらぺら喋ると言う事も、何かの契約をしたりする時には便利ではあるし、日本人はどっちかと言うとぺらぺら喋るのは苦手な方な
ので、あらかじめぺらぺら喋るのには、なれていた方がいいかもしれないが、やはり上にも書いてあるように、自分の文化を大切にしたほうが言いと思う。  

 
                                                 
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