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社会
アジサイ の広場
玲子 あそわ 高2
 社会という言葉には本来欧米でつくられたもので個人がつくる社会を意味し
ており個人が前提であった。この言葉は明治以降日本でも使われるようになっ
た。しかし、日本ではこの「社会」という言葉は欧米の「社会」とはだいぶ違いが
ある。日本の個人には表向きの顔や発言もう一つは内面の思いという二面性が
あるのだ。欧米と比べるとあまりにもあいまいなものだ。日本ではこの日本独
特の個人が世間つまり「社会」と関係しているのだ。
 
 日本でいう社会では誰かが罪を犯そうとするとそれを隠そうとする習性があ
る。このため日本の社会では色々な問題がおきている。たとえば、最近でいう
と神奈川県警の不祥事問題なんかが良い例だ。警察内で不祥事がおきてもそれ
を世間には公表せずみんなで覆い隠してしまう。そうしてまた何事もなかった
かのような顔をして平気に過ごしてしまう。このような事件は実際の所私達の
知らない所で色々な場所で多発しているだろう。もしかしたら自分がその場に
居合わせることもあるかもしれない。その場合自分だったらどうするだろう。
もしも私がアメリカ人だったらはっきりといけないことだと世間に公表するこ
とができるだろう。あるアメリカ人の子供は親に虐待をされそれを裁判で訴え
勝訴したそうだ。しかし、日本の世間ではそう簡単に真実を赤裸々に公表する
ことは難しい。回りからの色々な圧力に負けてしまうことが多い。日本は昔か
らこのような流れで時代を繰り返してきた。ではこのことはなぜおこってしま
ったのだろう。それは日本人では個人個人の自立というものがあまり盛んに行
われず自分というものがあまり形成されていないうちに社会へ送り込まれてし
まうのだ。そのため自然と一人一人の未熟さを互いにかばいあうというシステ
ムができてしまったのではないだろうか。
 
 日本の社会は欧米の社会に比べると楽なものである。そして、助け合いの精
神が強いのではないだろうか。しかし、この精神を誤った使い方をするとなん
でも許される大変な社会になってしまう。なにも欧米流の考え方をすべてそっ
くりそのまま真似することはない。欧米の個人を確立する積極性と日本の助け
合いの精神が折り重なって一つの社会になれば素晴らしいものになるだろうと
私は思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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