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観客参加
アジサイ の広場
りさ あいす 中3
 演奏する者と見る者、聴く者とを空間的に分割するという考えは、居ずまい
を正して作品に集中するというような聴衆の態度をつくりあげた。しかし、19
60年頃から今までの芸術鑑賞に反発する動きがおきた。演奏中に客が絶叫する
ようなライブや、観客を演劇の中に巻き込んだりするような動きがおきてきた
のだ。このように、時代は観客参加を重視するようになってきたのだ。この観
客参加により、社会は民主的にまとまってきたといえる。
 
 では、観客参加はどのようなときに必要なのだろうか。まず、授業が主な例
としてあげられる。小学校までの授業は、生徒が主役で先生は生徒の助役とい
う感じであった。勉強の内容が簡単だったからともいえるが、中学になってか
らは先生が一方的にしゃべりっぱなしの授業ばかりだ。生徒は受け身専門であ
り、授業に参加しているというよりは、授業を第三者として鑑賞しているとい
ったほうが良いだろう。このような授業では、知識を詰め込むだけで生徒の考
えを深めるということにはつながらない。授業は観客参加が必要なのだ。私の
学校でも、先生によっては生徒が授業に参加するということを重点においてい
る。特に英語の授業などは、生徒同士で会話練習を毎時間させる。このことに
よって、英語にも慣れ、また記憶にも残りやすくなる。まさに、一石二鳥だ。
 
 それでは、観客参加をするためにはどうすればよいのだろう。アドリブを恐
れないということが必要だ。日本はなにかをしようとするごとに、初めから終
わりまで予定をたてたがる。アドリブでやりとおせる自信がないのだ。卒業式
は、予行練習をする。あいさつまでもを厳密に時間をはかり、予定を分刻みて
たてる。このような日本は、決められたことを決められたとおりに行うだけな
ので、アドリブもきかない。また、観客参加なんてものはめったに経験できな
い。
 
 また、社会の構造を変えていく必要がある。現在の日本の社会はミスを許さ
ない風潮がある。これでは、アドリブを使うにも使えない。アメリカなどの演
説、司会を見ていると、必ずジョークをいれ、気軽に観客も笑っている。日本
にもこのような風潮にかえていく必要があるだろう。
 
 「何事もしない者だけが失敗もしないのである」というように、失敗を恐れて
はなにもはじまらない。失敗を恐れず、アドリブも恐れずに使えるようになっ
て、はじめて、観客参加という民主的なものが完成されるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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