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過ちは殺すべきか活かすべきか
イチゴ の広場
拓馬 ねき 中2
 
 
 
 犠牲がなければ今の平和がなかったわけではないだろう。早い話が、一九四
四年末の段階で大日本帝国ファシスト政権が降伏していれば、三月十日の東京
大空襲の死者十万人も、沖縄戦の死者二十三万人も、ヒロシマの死者十五万人
もナガサキの死者七万人も出さずに済んだ。
 
 ヒロシマへの原爆投下の正当性を言い張る人々がまだアメリカには多いよう
だ。つまり、あそこで原爆を使わなければ本土上陸作戦でたくさんのアメリカ
の若者が死んだし、日本側の犠牲も多かったはずだという論法。
 
 これに対して、日本の側から何の反論も出てこないのは、戦後五十年、各論
として名誉の破片を拾う本はたくさん出たが、究極の責任を問う史書はまだ出
ていないことによってであり、だから、原爆投下に対しても決定的な反論がで
きない。
 
 「意味ある死だった」ではなく、「無念のうちの過ちだった」という観点か
ら見ない限り、人類はまた同じ事を繰り返してしまうのではないだろうか。
 
 過ちは過ちであるが故に自分自身の「恥」になるものであると考えられる。
ということは、必然的に抹消の対象になり、隠蔽される。そりゃあ、恥は他人
にはさらしたくはない。覚えて置こうとも思わない。実際、恥自体をいつまで
も覚えていても、気持ちがブルーになる一方だ。事実、私は人前でこけたりか
ばんの中身をぶちまけたことなど、逐一覚えていないし、覚えていようとも思
わない。あなたもそうであろう。そんなものはさっさと忘れた方が、身のため
だ。「恥」を覚えていたからといって、良いことはないのである。
 
 しかし、過ちが「恥」であるかといえば、そうではない。過ちは更正すべき
ものであり、決して隠蔽するものではない。過ち=恥ではないのである。この
ような思い違いは、意外に多くの人が無意識のうちに考えの根底に持っている
と思う。これまでの歴史で、過ちは覆い隠され、そのまま闇に葬り去られるこ
とがしばしばあった。今でこそ、政治は民衆に公表されるようになったが、そ
れでも、犯してしまった過ちに我を失い、汚職事件やらなんやらで闇に葬っち
ゃう未遂とか闇に葬っちゃった現行犯などがまだおこっている。やはり、過ち
は恥であり、いろいろな面で面倒になると考えているのだろう。信頼が云々と
か言っているけれど、「隠した方がよっぽど信頼なくすっちゅうねん!!」とツ
ッコミたくなることもまだまだたくさんある。そんな社会現状のなかで、どれ
だけ確たる自分がもてて、過ちを公表すべきかどうか考え、その過ちを参考に
、これからどうしていくのかを考えてこそ、日本の、そして世界の明日が見え
てくる。少しかたい言い方だったが、柔らかく簡単に言えば、間違いは直しま
しょう、という事だ。これは、小学校どころか、幼稚園でも習う事である。
 
 そりゃぁ、自分のミスで過ちを起こすのは誰だって嫌である。どうせなら、
自分は間違ったことをしたことはない、と言いたい。しかし、どんなに有能な
コンピューターでも、一度は計算ミスをするし、エラーが発生したりする。そ
んなものに過ちがあるのだから、我々人間に過ちが出ないはずがない。たとえ
どんな大きな過ちを犯したとしても、その責任から逃げようとしないで、真っ
正面で受ける必要がある。「暗殺者は世界の歴史を変えなかった」という言葉が
ある。そう、責任を殺しているだけでは、いつまでたっても成長は望めない。
殺す事は、決して勇気のある行動ではない。目の前にたって臆せず戦ってこそ
、勇気があるということだ。
 
 (1.2週の講評はもう出ないので、1.0週の講評にも転記しておいてください
。森川林>まみ先生)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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