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さて、ヨーロッパの旅をする時
アジサイ の広場
武照 あよ 高2
 「よく悪い遺伝子とか、良い遺伝子とかそういう言い方がされていますが、
そもそも悪い遺伝子というものはないのです。たしかに遺伝病を引き起こす遺
伝子もありますが、遺伝子とはそもそも一定の割合で突然変異を起こすもので
、それと引き換えに進化と繁栄を手に入れたのです。個人にとって悪い遺伝子
があるとすれば、それはその人を支えられない社会が悪いのです。」
 
 「二重螺旋の私」などの著作で知られるサイエンス・ライターの柳沢佳子は
このように言う。何も遺伝子の事だけではない。物事に善し悪しがあるのでは
なく、人間との関わりにおいて良い事と悪い事が存在するという視点は重要で
ある。しかしながら現実は、その関わりを無視して絶対的正義と絶対的悪を論
じられる事が多い。無法化したインターネットに秩序をという大義名分がマス
コミで騒がれ、新聞の投稿欄にはインターネットが人間関係を崩壊させるとの
主張が頻繁に為されていたことがあったが、一歩下がって考えてみれば、それ
が偏った考え方である事が分かるであろう。殺人はナイフが悪いのであろうか
。インターネットは空間に過ぎない。インターネットのいかなるあり方も人間
とその空間との関わりによって決まってくるものなのである。
 
 人間が、物事を人間との関わりにおいて論ずることがなかなかできない背景
として、道徳を無意識に法律等によって擁護する社会のあり方がある。美しい
自然を流す事はあっても、放送基準に触るような、ドロドロと血を垂らしなが
らインパラの肉を毟り取るライオンの顔のアップなど絶対に流れない。我々の
心のうちにある美しい自然を守るがゆえに、絶対的な自然の存在を我々が信ず
る事となるのである。しかし「蛍の乱舞など赤潮に過ぎない」と言った日本淡
水生物研究所の森下所長や、「臭いにおいを発するどぶ川と綺麗な川に住むフ
ナを区別するのは人間の美意識の問題だ」といった漫画家の宮崎駿等による、
いわば「ゲリラ的」な意見が時により本質を突いているということもまた事実
なのである。
 
 たしかに人間との関わりとしてではなく、物事自体の善し悪しを論ずる事も
重要かも知れぬ。それは物事の危険性の指摘につながる事がある。インターネ
ットの善し悪しを論ずる事はネット犯罪の認識に繋がったはずである。しかし
、その危険性の原因を物事の存在自体に求めるのは誤っているであろう。物事
の存在を認めて、物事と自分との関係のなかでより良き関係を探ってゆく事が
、これからますます重要になってくるはずである。
 
 柳沢佳子は言う。「2000年と言う年は(病気を患っていた私には)来ないは
ずであった。2000年という数字を見て私は美しいと思った。これは端数のない
数字的な美しさだけでなく、2000という数字自体に美しさを感じているからだ
と分かったのです。」柳沢氏にとっての2000という数字の美しさはまた、彼女
と数字との関係によって存在しているものなのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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