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 森川林の日記。どうでもいいことと重要なことを両方書きますが、重要なことは然るべきところにリンクしておきます。



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言葉の森が森林プロジェクトで目指すもの (7410字)  森川林 2018/08/14 18:18:49 9109   5     

 言葉の森が40年以上前、作文教室という名前の教室を開いたころ、作文を教える教室というのはどこにもありませんでした。
 国語でも、漢字でも、その他の勉強でもない、純粋に作文だけを教える教室というのは、どこにもなかったのです。

 作文教室を始めた動機は、作文教育というのがおもしろそうだからというものでした。
 学校で行われているほかの勉強、国語、算数、理科、社会などは、特に誰かに教えてもらわなくても独学でできます。だから、国語の勉強を教えるというような発想は全くありませんでした。
 作文の教育というものが、単なる勉強ではない、創造性を育てる勉強になるという予感があったので、その予感だけで作文教室を始めたのです。

 作文の教育法というものも確立したものはもちろんなかったので、最初は、古今の作文教育に関する本を手当たり次第に読むことから始めました。図書館に行ったり、古本屋で探したりして、作文教育に関する本を最初の1、2年間で約200冊読みました。
 そして、実際に小学生の子供たちを集めて教室を開きましたが、小学生の作文指導というものがかなり難しい面があることがわかりました。
 それまでは、大学生対象の作文教室を一時期開いていましたが、大学生のような大人を教えることはそれほど難しくありません。もう文章を書く力が備わっているので、書き方の方向を教えてあげれば、誰でも書けるようになり、それを繰り返す中で上達していくからです。
 しかし、小学生の中には、書く力がなく、作文が書けないからと言って騒ぐだけの子もときどきいたのです。もちろん、よく書ける優秀な子もいましたが、どの子にも共通することは、教えてすぐに上達するわけではないということでした。
 それは、作文というものが、作文を書く力だけでなく、その土台にある読む力に大きく制約されていたからです。作文力は、読む力をつけなければ、根本的には上達はしないということがよくわかってきたのです。

 そこで、音読の教材を作ったり、暗唱の教材を作ったり、子供が書くときの目標を決められるように、作文に入れる表現の項目を決めたり、高学年の場合は構成の仕方を決めたりといういろいろな工夫を行いました。
 これらの工夫はすべて、子供たちの作文を何とか上達させたいという気持ちで始めたもので、そのため、教材や教え方が最初のうちは毎月のように変わりました。
 一時期、山の斜面を登っている夢を見ました。行けども行けども、草木が立ちはだかり、尾根にはいつ出るかわかりません。最初のうちは、隣の山に同じように登っている人が見えたのですが、今はもう同じ高さを登っている人は誰もいません。ただ、自分だけが見通しのない山の斜面をひたすら登っていくのです。しかし、そのとき同時に、その苦労が楽しいという気持ちもまたあったのです。
 そうこうしているうちに、作文の指導法がだんだん固まってきました。しかし、指導はできても、作文の評価というものは、見る人の主観によってかなり異なります。
 子供たちは、自分で自分の作文を評価できません。これは大人も同じですが、作文というものは自分では評価できないものなのです。だから、子供たちは、先生や親から褒められば自分は作文がうまいと思い、逆に先生や親から直されれば自分は作文が苦手だと思います。そのために、作文指導に熱心な先生に教わるほど、作文に苦手意識を持つ子が増えるという傾向があったのです。

 当時、2003年か2004年ごろだったと思いますが、アメリカでイーレイター(Erator)という、自動採点ソフトが作られたという記事を読みました。
 ちょうどそのころ、自分自身が見よう見まねでプログラミングの勉強をしていたので、自分でも作れるかと思い、それまで子供たちにパソコンで書かせていた作文をデータにして、いろいろな処理をしてみました。
 すると、1ヶ月もたたないうちに、人間の評価とかなり相関の高い自動採点の仕組みができたのです。そこで、このソフト、「森リン」も、作文指導のひとつの方法として取り入れることにしました。

 このように、作文指導だけを追求していた結果、言葉の森のオリジナルな方法がかなり積み上がってきました。そして、作文指導は、次第にはっきりとした成果を上げるようになってきたのです。
 しかし、やがて、こういうオリジナルな指導法も、誰かが真似するようになるだろうと思いました。それは、言葉の森が作ったオリジナルな長文が、ほかの学校などで使われていることを保護者から聞いたことがあったからです。
 その長文というのは、子供たちが読むための説明文の本が不足していることから、言葉の森の講師が独自に作った1200字程度の文章です。この長文の特徴は、説明文であること、明るい内容であること、美しい表現であること、そして笑いがあることでした。この「笑い」を入れるところが最も苦労したところで、一つの文章に面白いダジャレをいくつか入れるために、その文章を書く時間の何倍もの時間を使いました。そういう力作の長文が、ほかの学校で教材として利用されていたというのです。
 しかし、私は当時のオープンソースの運動というものに共鳴していたので、よいものは、自分だけのものにせず、誰でも自由に使いたい人が使ってよいという考えを持っていました。だから、そのことに関しては何もしなかったのです。
 そして、そこから、今言葉の森がオリジナルな教材や指導法として使っているものも、やがて多くの人がコピーして使うようになるだろうと考えたのです。
 そして、それならば、最初からみんなが使える形でオープン化してしまえばよいと考えました。

 そこで、言葉の森のオリジナルな教材と指導法を全部使える形にして、それを森林プロジェクトの作文講師資格講座として提供することにしたのです。
 それは、ある意味で、言葉の森の競争相手を多数作ることでしたが、それならそれで、言葉の森自身がよりよい指導を開発し続ければよいと考えたのです。

 この森林プロジェクトのシステムは、うまく使えば、言葉の森と同じことができるはずですから、きわめて高い価値のあるものです。そして、実際に、この教材を使ってたくさんの生徒を教えている先生もいます。
 しかし、作文指導というものは、やはりほかの勉強と違って難しいことが多く、資格を取得して教材が使えるようになっても十分に活用できない講師もいたようです。

 さて、話は少し変わりますが、私が作文教室を始めた動機は、作文が子供たちの創造性を育てる勉強になるという予感からでした。
 そのころは、受験に作文が使われるということもなかったので、作文教室に通わせた保護者は、純粋に作文の勉強というものがちょっと変わっていて面白そうだからということだったと思います。
 その後、大学入試で小論文試験が行われるいようになり、やがて推薦入試などで作文が使われるようになり。そのうち、公立中高一貫校の入試で作文が使われるようになりました。
 そのころから、言葉の森以外の作文教室というものがあちこちで生まれてきたのです。

 それらの新興の作文教室あるいは作文講座あるいは文章教室というものは、社会に作文というニーズがあるから始めたものです。ある意味で、売れそうだから始めたというのが出発点です。
 言葉の森も、今の社会の中で運営していくためには、売れることを考えなければなりませんが、もともとの動機は売れるかどうかとは違うところにありました。
 子供たちの創造性を育てるということは、もっと大きく言えば、日本という国をよりよい国にしたいというところから出てきた気持ちでした。

 森林プロジェクトを始めてからしばらくして、2011年3月11日に、東日本大震災がありました。
 そのとき、自分が日本を守るためにどういうことができるかを真剣に考えたのです。
 そこで出た結論が、作文だけでなく全教科を創造的に教える教育をすることで、その担い手として森林プロジェクトの講師の力を借りるということでした。

 日本は、政治の面では、まだ自立した国になっていません。経済の面では、量的には中国に追い越されるようになっています。そして、教育の面でも子供たちの学力や文化力が次第に劣化しているような印象を受けていました。今の子供たちは、自分たちが子供だったころよりも、はるかに長時間勉強しているように見えます。しかし、学力の面ではかえって全体に低下しているような気がします。そして、戦前の教育について書かれた本などを見ると、自分たち自身もその親や祖父の世代よりも、学力的にも文化的にも低下しているように思えたのです。

 そこで考えたこれからの教育の柱が、次の4つでした。
 第一は、受験のための教育から、実力のための教育へです。本当に役に立つことだけを勉強するのであれば、教育はもっと簡素化できるはずです。
 第二は、学校や塾の教育から、家庭と地域の教育へです。これは、子供の教育を外部の機関に任せてしまうのではなく、家庭と地域もっと重要な役割を担うべきだという考えです。
 第三は、点数の教育から、文化の教育へです。これは、点数化できないことにこそ重要なものがあるという考えです。
 第四は、競争の教育から、創造の教育へです。今の教育は、競争に勝つことを目的としています。そうではなく、競争を超越して誰でも創造的になる教育をしていく必要があるという考えです。

 この教育の立て直しを考えていると、教育という分野こそ、次の時代の経済の中心になるのではないかということがわかってきました。
 これまでの経済の中心は、工業製品でした。工業製品を作るためには、資本や設備が必要です。だから、資本主義というのはある意味で工業時代の経済だったのです。
 この資本主義の今の担い手として、中国などの新興国が力をつけてきました。それは、最新の設備と比較的安価な労働力で、これまでの日本のような先進国の工業を上回るようになったのです。
 世界にはまだ貧しい国がたくさんあります。それからの国々がこれから先進国と同じ生活を目指すとなれば、工業時代のニーズは更に広がり、新興工業国の経済は更に発展するように見えます。
 しかし、日本が工業化に成功して豊かになった時代には、工業製品の絶えざる開発と新しいニーズの創造というものがあったために、工業生産が利益を生み出していたのです。
 今の新興工業国の作る工業製品は、新しい開発の余地のあまりない言わば完成されているのに近い工業製品です。需要も供給も完成に近づいているということは、利益率が低下していることです。そして、工業の分野に関しては、宇宙開発とか海洋開発のような大きなプロジェクトはあるように見えますが、それらの開発が終われば、大衆のレベルでは、これまでの自動車などに代表される大きな工業製品の開発というものは次第になくなっていくのです。

 そして、工業が、利益率の低下に対応する道は、機械化による人件費の削減です。これは、大きな企業になるほど顕著になってきます。グローバリズム自体が、工業時代の終焉が近づくことに対する対策でした。これから進むM&Aや機械化やAI化も、利益率の低下に対する対策なのです。
 しかし、その対策をすればするほど、今度は雇用される労働者の賃金が減り、社会全体での需要はかえって縮小していきます。

 工業時代が終焉しつつあるというのは、特に先進国では、欲しいものがないという形で表れています。では、先進国でのこれからのニーズは何かと言えば、それは工業製品のような対象物としての物ではなく、自分自身の人間としての向上や経験や交流や創造のような自分を変えるというものになるのです。
 それは、別の言葉で言えば、自分への教育です。それは、「もっとこういうことができるようになりたい」というニーズです。そこには、「もっと美しくなりたい」「もっと健康になりたい」「もっと賢くなりたい」なども含まれますが、より本質的には、「自分の好きな分野で自分自身が創造するようなことをしたい」ということになります。

 この教育は、個性によって限りなく多様化するので、大企業が大きな需要を見込んでサービスを提供するという形にはなりません。個性的な得所な興味関心がロングテールとしてどもまでも広がるようなニーズとして登場します。
 そして、この教育のニーズの重要なところは、教育を需要する人が、その教育に習熟するにつれて、今度はその教育を供給する側に回れるということです。その際、単に自分が教えられたことをそのままほかの人に教えるようなやり方ではなく、自分なりの好みや個性を加味して新しい供給として提供することが自然に増えてきます。
 そして、その過程で、新しい開発と新しいニーズが生まれるたびにそこに大きな利益が生まれるようになるのです。
 すると、この利益の総和は、工業社会が完成された需要と供給でただ循環するのとは反対に、常に新しい需要と供給が創造されることによって上昇する循環という形になるのです。

 この教育、更にその成果としての文化を教育文化産業と呼ぶことができます。この教育文化産業に最も適した国が日本です。それは、大衆的に教育文化に対する幅広い需要があると考えられるからです。
 更に、日本にはその教育文化をより洗練化された形に作り上げる繊細な文化的伝統があります。その文化的伝統が、多様性を生み出します。また、日本には、その文化をより超越的なところにまで「道」として高める文化的伝統もあります。
 新しく生まれるさまざまな文化の中には、将来、茶道や華道や剣道などの「道」の文化につながるものも生まれてくるはずです。

 そして、この教育が行われるところは、個人の身体です。教育は、人間が自分の身体を通して習熟するという形で需要されるので、コピーしたり、物として大量生産されたりするものではありません。だからこそ、教育においては、需要者がやがて年数とともに供給者に変わるということが起きてくるのです。

 教育が個人の身体に根ざしていることは、二つの特徴を生み出します。それは、その教育を最も高いレベルで受けるためには、ある特定の人に、ある特定の場所で教わる必要があるということです。
 すると、日本社会が教育文化の面でさまざまな新しい教育分野を生み出すにつれて、諸外国の人も、その教育を学びに日本を訪れる必要を感じるようになるということです。もちろん、日本が、現在、空手や合気道の道場を諸外国に輸出しているように、教育文化の分野でも、学校や教室を輸出するということは出てきます。しかし、その場合でも、最後の目的地はその教育文化の発祥の地であり、その教育文化の創始者なのです。
 そして、完成された工業製品が利益率を低下させるのとは反対に、創造的開発を続ける教育文化では、値段のつけようのないものも次々に生まれてきます。それらも供給者が増えるにつれて利益率が低下しますが、その一方で新しい創造的開発が次々に生まれてくるのです。
 それは、教育文化産業の特徴として、全くの個人が生産者になれるというところから来ています。もし人口が一億人いれば、その一億人がそれぞれの創造的な文化を自分の興味と関心に応じて作りだすということも理屈の上ではありえます。
 これまでの工業時代には、製品を開発するのは一握りの人でした。しかし、教育文化産業の時代には全員が開発者になるのですから、その創造の爆発力は比較にならないほど大規模になるのです。


 この一人ひとりが創造者になる教育文化産業時代にちょうど合わせるように、ブロックチェーンの仕組みも生まれてきました。どこかの大きな組織に属さなくても誰もが自分で会社のような組織を運営できるようになってくるのです。

 もちろんすぐに、この教育文化産業が日本中に広がるということはありません。しかし、そのための方法はある意味で簡単です。それは、国や地方自治体のレベルで、創造文化祭典を定期的に開催するのです。その祭典の受賞者には、ちょうど今のオリンピックの金メダルや、もっと言えばノーベル賞並みの価値が与えられるようにするのです。すると、それが呼び水となって新たな教育文化を創造しようとする人が続々と生まれてきます。そして、その中のいくつかの教育文化が、新しい地球の文化として大化けする可能性があるのですから、創造祭典はすぐにもとが取れるようになるのです。

 今の地球の生産力は、実は人類全体を養うのに十分だと思います。世界に貧困が残っているのは、政治的な問題であって、経済の問題ではないのだと思います。
 すると、国民のベーシックインカムを保障した上で、自由な創造に誰もが参加できる社会も可能になります。

 ここで話は、急に現実的なところに戻りますが、このような時代を見越して、言葉の森は、森林プロジェクトの寺子屋オンライン作文講師を広げたいと思ったのです。

 ところで、今、日本は他の国に比べて豊かであるかもしれませんが、若者を中心に貧困が拡大しています。それは、子供たちの教育環境の格差として表れています。
 だから、寺子屋オンラインで行う驚異kは、受講料をできるだけ安くしたいと思ったのです。そのかわり、その受講料は、講師がほとんど受け取れるようにします。
 すると、講師は、たとえ最初に資格を取るために講習費を出すことがあっても、それは子供を教える中で回収することができます。また、工夫次第で、生徒を増やすことも、更に自分なりの新しい教育をより高額で行うこともできるようになるかもしれません。また、そうなると、今度は生徒を教えるだけでなく指導者を養成するという仕事もできるようになるかもしれません。

 このように考えて、生徒の受講料はあくまでも安く、講師の資格取得費はある程度高くというビジネスモデルでやっていくことにしたのです。

 言葉の森では、この寺子屋オンライン「作文講師」実践育成講習会を9月から合宿形式で行います。
 この方針に賛同される方は、ぜひご参加ください。
 そして、一緒に日本の教育を変え、更に日本の社会全体をよりよいものに変えていきましょう。


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