題名 | 教育の力 74 |
名前 | 森川林 |
時刻 | 2005-08-05 10:26:38 |
人間は、この地球上のどの生物よりも大きな可能性を秘めた生物です。しかし、その可能性は、創造の可能性と破壊の可能性の両方に開かれています。
広い宇宙には、地球人と同じように高度に発達した文明を持つ宇宙人がいると思います。その宇宙人も、歴史の中で何度も滅亡の淵に立たされたことがあったはずです。また、その中の何割かの宇宙人の文明は、実際に、発達のバランスを崩して滅亡していったはずです。 発達と滅亡を分けるものは、バランスです。急速に発展するものは、同時にバランスも失いやすいと考えると、今、宇宙で高度な文明を持つ宇宙人は、緩慢に発達したものではないかと推測できます。 地球人のように、わずか数十年で、ダイナマイトの発明から原爆の発明まで突き進むスピードを持った宇宙人は、たぶんほとんど滅んでいったのだと思います。もし、同じ発明の発達に十倍の時間がかかっていれば、危険の可能性はかなり減少するでしょう。百倍の時間がかかっていれば、核戦争で滅ぶということはまずなくなるでしょう。 しかし、人間が今から緩慢な発達に変化することはできません。人類を含む地球上の生物は、カタツムリのようなものを除けば、全体に生きる速度が速すぎるのだと思います。 そのアンバランスになりやすい人類がバランスを保つための最も大きな手段は、政治と教育です。 政治の要諦は、ひとことで言えば民主主義の徹底です。今、日本の常任理事国入りが論議されている国連は、国際的な民主主義を保障する場としては大きな制約を持っています。日本は、その国連の枠の中で自己主張をするだけでなく、国連とは別の新たな民主的な国際機関を創設する展望を持つべきだと思います。今の国連に不満を持つ多数の国々が集まれば、国連よりも更に徹底した民主主義を貫く新国連が生まれると思います。 もう一つの教育の要諦は、二つあります。一つは破壊性の克服、もう一つは創造性の開発です。この中で緊急を要するものは、破壊性の克服です。テロリズムと戦争は、過去の時代と比べて比較にならないほどの大きな破壊の手段を持つようになりました。オウム真理教がサリン事件で試みたように、巨大な殺戮がきわめて容易になっているのが現代のテロリズムの特徴です。強力な破壊力を持った個人の憎悪の連鎖を力で止めることはできません。 憎悪を克服するものは、力ではなく、愛の教育です。その教育は、言葉の上で愛を十編唱えるような教育ではなく、事実の中で愛を学ぶような教育です。日本は、この愛の実践が豊かな、世界でも稀な国だと私は思っています。 例えば、「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」。これほど悪を為した人を心から許そうとする言葉があるでしょうか。その言葉を創造した人がかつて日本にいて、その思想に共鳴した多くの人が今もいるのが日本なのです。 また、例えば、勝海舟は、常に暗殺者に命を狙われる情勢の中で、護衛の申し出を断り、家族と女中の数人で暮らしていました。また、自ら剣の達人でありながら、刀に封印をして抜かないようにしていました。更に、どうせ世の中が変わるのだからと、江戸中の牢から罪人を釈放しました。しかし、その一方で官軍から慶信の命が要求された際は、江戸中を火の海にする手はずを整えて、西郷隆盛との話し合いに臨みました。(「氷川清話」より) 個人でも民族でも、緊張の極にある最後の場面で、その個人や民族の人生観が形成されます。海舟と隆盛が行った江戸城の無血開城は、近代日本の精神的なバックボーンとなり、その影響は今も私たちの中に残っています。 ずっと以前、テレビで、ある民族のお祭りを見ました。そのお祭りの儀式の一つは、生きた鶏をさかさにつるして、みんなで叩くのです。鶏にとっては、いい災難です。しかし、かわいそうなのは鶏だけではありません。そういう文化的実践の中で成長していく子供たちは、確実に自分の心の中に暴力と憎悪を育てていくのです。 日本文化は違います(と自慢が続きますが)。私の父は、年末になると、「ネズミもお年取りだから」と縁の下かどこかに食べ物を置いていました。ふだんは、ネズミ捕りでつかまえているくせにです。 節分の「鬼は外」を、「鬼も内」と言って豆を投げる地域が日本の各地にあるようです。その話を聞くと、ほとんどの人は素直に納得します。つまり、私たちすべての心の中に、「鬼も内」のほうがしっくりくるような文化があるのです。 この文化的実践を教育として伝えていくことが、現代の日本人と人類に課せられた大きな課題です。人類が自らの破壊性をコントロールできるようになって初めて、その次の創造性の開発が教育の主要なテーマになっていくのです。 |