題名 | ズミ 11.4 1768 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:57:09 |
マナーの精神をもつ人とは、自制しん・こっきしん・忍耐力をもつだけでわじゅうぶんではなく、さらにまた優しさや寛容さや親切しんをもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的てきな企図を、気前よく破壊する力を発揮できる必要がある。挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって、有用性に基づく交換のわから離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。おじぎをする前のなにものにも依存することのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴわくじかれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。相手に屈服したからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが純粋贈与のおじぎである。この瞬間、目的てきせいから解き放たれ、おじぎわそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間を生みだす。挨拶のおじぎと私たちが神や仏の前で祈りを捧げる姿勢とが類似しているのは、この両者がくぎとして留保なく自己を差しだすこと、つまり純粋贈与だからである。
私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。それわバルネラブルな状態に自らをさらけだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「わたくし」を、相手は無視したり拒否したりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。こうして無条件に相手を招き入れる。私たちわおじぎをするたびに、大きな「かけ」をしているのである。 自己が有用性に基づく交換のわから離脱し、ひ ちの体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちわおそれと歓喜とを感じることができるのである。それは負い目を動機とする義務化した交換としての挨拶ではなく、純粋贈与として自己を差しだしたときに生じるのである。マナーの本性は純粋贈与であり歓待なのだ。 このような自己の境界線が溶解するひ ちの体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、畏怖を感じることはない。そのような人は自己を破壊することなく、あくまで同一てきな自己にとどまり、挨拶はたんなる形式的な社会的交換になってしまう。マナーがマニュアル化できるしんたい技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。挨拶の仕方のみならず、魅力的なわらい方さえ、マニュアル化して教えることができる。しかし、それではマナーは人間関係を円滑にするための贈与交換のしんたい技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きわしない。そしてしんたいは、自己から切り離されて、ますます自分にとって道具のようなものになってしまうだろう。これではやがてマナーは贈与交換でさえなくなる。どこまでも私たちは「空虚の感」「不満と不安の念」をいだき続けるしかない。 |