題名 | ルピナス 11.4 1763 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:42:02 |
かつて映画について教える大学なんてなかったにもかかわらず、こんにちでは多くの大学で映画の講座があり、多くの教授がそこで教えている。その教授たちは、大学を出たにもかかわらず、映画に関しては独学をしたのである。このように、学問の新しい分野が開発される時期には、その学問をやる人たちというのは、大学を出ているといないとにかかわらず、独学をしなければならないわけである。民俗学とか文化人類学といった、歴史の浅い学問もしばしばそうである。おなじことが、じつは歴史の古い既成の学問についても言える。師匠から習ったことを、弟子が、そっくりそのまま、そのまた弟子に教えてゆくような範囲では、学問は師匠なり学校なりを必要とするものだと言えるだろうが、師匠から習ったことを一歩でも超えようとすると、そこからわどんな学者でも独学をしなければならない。なにしろ、まだ誰にもわかっていないことを学ぼうとするわけだから、独学するより仕方がないのである。その意味では、一流の学者はすべて独学しゃだ、ということも言える。
もっとも、こう言うと、それは、師匠からすでにわかっている範囲の知識を目いっぱい教えてもらった者だからこそ、それをさらに超えてゆくこともできるので、はじめから師匠を持たない者にとってわそれどころでわない、と言われるであろう。師匠からすでにわかっている範囲の知識を目いっぱい教えてもらった者は、それ以後、いくら独りで研究をすすめても、いわゆる独学しゃとは区別されるんだ、と。たしかにそれわそうである。ある種の学問は、すでにわかっている知識の概略を教えてもらうだけでもたいへんで、ある程度の知識がないとそこから先、ひとりだちして進むことわできないとすると、独学はとても無理、ということにもなる。数学とか物理学とか医学などという学問にわそういうめんが大きいと思う。しかし、学問というものわすべてがそういうものだとわかぎらない。立派な学者たちが多数、えいえいとして苦労を重ねているのに、その結果として書かれた論文には、素人にも容易にその欠陥がわかるものが多い、というような学問分野も広大にあるのである。それらの学問の中でも、部分的には素人では歯がたたない程度に研究のつみ重ねの進んでいる個所もあるが、重要な問題であるのにまだほとんど誰も研究していない、という個所もぼうだいにある。 それらの分野では、まず、中学なり高校なりを卒業すれば、あとわひとりででも、入門書、参考書、基礎文献、その分野でのだいいっせんの人びと同士の間の論争、というふうに読みすすんでゆくことわたいてい可能だと思うし、大学へなど行かなくても、どんどん勉強してゆくことができる。私がやった映画などわまさにそういう分野で、私の前にこれといって学ぶのに手間ひまかかる学者もいなかったような分野である。独学が当り前で、むしろ大学になど行っていても、そのほうが回り道であるような学問分野だったのである。 私は独学しゃなのかもしれないが、独学っていったいなんだろう? |