題名 | 小6 フジ 12.4 1760 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:23:34 |
以前、私は政府の国語審議会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語の表現をどう考えるかであった。敬語が日本語にわたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
もちろん外国語にも、相手を尊敬した表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語は日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、私はぎょう天した。 じつわつい最近、私はヨーロッパのしょう旅行の途中、バスの座席に幼子を座らせようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。 また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「フォーミー」を加えたりする。 だから日本語に敬語が目立つというのは人種が上等なだけだ(!)。 さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「 させていただく」といういいかたがある。「どうぞ、どうぞ」と椅子をすすめられると「ありがとうございます。座らせていただきます」と言う。「じゃ座ります」などとは言わない。 「いっしょに帰りませんか」。はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子に座らせるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分をともとして従える。そのように自分をさせる、と考えるのである。 あくまでも相手がしゅで、自分はそれに従っているにすぎない。 これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分からくちを切る。とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのわだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。 いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろう。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつわこの相手への尊重であった。 そこで念のためだが、相手への尊重を、封建的なものとか、階級意識とかと誤解しては困る。 そもそも日本語の敬語は、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。はっせいきのころわそうである。 それがやがて敬愛の気持をあらわすようになり、やがて尊敬の気持の表現となった。 そのうえでも、尊敬するかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語が一致してしまった。 そのばあいでも、心のなかで尊敬してもいないのに敬語を使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。 だからあくまでも敬語は相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬がなくては生じない。尊敬の気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語、さっき親愛をあらわすといったものだ。 だからそもそもの敬語は女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬にみちていたのである。 |