題名 | 小6 フジ 11.4 1759 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:21:55 |
簡単にいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「どうぎ」「節義」の意味もこれにあたる。
にとべ博士がいうように、なんと厳しい「掟」であるか。なぜなら、簡単に「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければばっせられるといった「法律」とは違う。法律ならば「してわいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己の観念にもとづく道徳は人間の内面に据えられた「良心の掟」であり、その基準は個人によって違うからである。 道徳(モラル)と法律(ルール)の本質的な違いは、道徳は良心の掟である以上「不変」なものだが、法律は社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。 たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応したものに変えられるが、「嘘をつくな」「よわいものをいじめるな」といった良心の掟は、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。 では、良心の掟とされる普遍的な道徳とは何か。一般にわそれが儒教のいう「ごじょう」、すなわち「仁・義・礼・ち・信」とされている。簡単にいえば、その基本は先に少し触れたように、「人に優しくあれ」「正直であれ(嘘をつくな)」「約束を守れ」「よわいものをいじめるな」「卑怯なことをするな」「人に迷惑をかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責」に襲われるのである。 キリスト教ではこの良心の掟を「神の声」としているが、儒教は神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教を学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。そのことを示す有名な言葉が、ろうしの「てんもうかいかいそにしてもらさず」(てんどうは厳正で悪事にわ早晩かならずあくの報いがあるとの意)である。要するにぶしどうでは、個人の道徳律、じんりんの道として、現実社会の法律を超越した「てんどう」に従うことが義務づけられたのである。 ところで、ここが重要なところだが、ぶしどうは「ごじょう」の中でも、とくに「義」を最高の支柱に置いている。 なぜか。その理由の第一は「人としての正しい道」である「義」が、他のとくもくとくらべてみて、もっとも難しいものだからである。というのも、この「義」は武士のみならず、いかなる人間においても、どのような社会にあっても人の世の基本であるからだ。この「義」(正義)が守られなければ平穏な社会は築けない。これは現在の社会とてかわるものではない。歌の文句ではないが、「義理(正義)がすたれば、この世は闇」である。 それゆえにこそ為政者側の武士は、江戸時代あたりから軍人的性格より行政官としての任務をもつようになると、「庶民の手本」となることが要求され、「義」を美学として生きることが義務づけられたのである。ぶしどうでは徹底的に、何が正しいかの「義の精神」を教え、彼らの行動判断の基準をこの「義」と定め、その行動の中に「義」があるかないかを常に問われたのである。 |