題名 | 小6 フジ 10.4 1758 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:21:31 |
では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから簡単には言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生の『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。その中で、「『美しい』と『きれい』とわちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち飽きてきます。いつまでも、あるいはいつ見ても心に響くということは少ないでしょう。
その本が文庫ぼんになっていたので、最近読み直して、若いときに、こんな難しいものをよく読んだなと思いました。そして「絵描きは美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。それは自分でそういい聞かせて、自分を駆り立てているのだと、好意的に読むことはできました。絵描きが「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ信憑性がありません。 今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きであることがたっとばれたそうです。「あの人は芸術かだから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇されて安く住むところが用意されているのだそうです。 日本では、優遇どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策として科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠なことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底すれば足りる、と考えられているようですが、わたしにわそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造しよう」とする感性と執拗な努力がりょうりんとなって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに魅せられる感性のためです。そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは惜しまれます。 「『美しい』と『きれい』とわちがう」……これは傾聴すべきことばです。「きれい」というのは「汚い」の反対語ですが、「美しい」というのわしゅうあくな部分までも含んでいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇画に描かれたキリストは、目を覆うほどのおできや腫れ物で覆われています。また金子みつはるの「だいふらんしょう」という詩も、人間が死んで腐乱していく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところわしゅうあくなものでも、心を打たれずにわおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の枯れ葉の褪せた色も美しい。「花はさかりに、つきわくまなきをのみ見るものかわ(桜の花は、満開のものだけを、つきわ満月だけを見るべきものだろうか、いやそうでわない。)」(兼好法師「徒然草」第137段)というのわこのことです。 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてわかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くわありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という厄介なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。 |