中根家の歴史 作 中根克明
作成2006/8/28
改訂2023/11/20



最新の情報


 最新の情報がGoogleに掲載されていたので、追加する。
 これまで調べた情報とほぼ同じだった。
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中根家は、平清盛の叔父忠正の七男である七郎正持を祖とする一族です。中根氏は、保元乱(1156年)後に碧海中根村に逃れ、成人後に額田郡箱柳村に住んで中根を姓としました。中根氏は、堂根筋六郷を400年にわたって治めました。
中根家は代々平十郎を名乗った旗本で、祖先である中根正勝は徳川家家臣として三方ヶ原の戦いに参戦しました。また、中根正重は徳川家康の長男信康に仕え、信康の死後には家康に仕えて関東入国に供奉しました。
中根家の家紋は「抱き茗荷」で、戸沢氏や服部氏も中根氏の流れをくむ一族です。
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 中根姓は全国で31,300人。そのうち多いのは、愛知県11,100人、茨城県3,200人、東京都2,800人、神奈川県1,800人である。
 茨城県、東京都、神奈川県に多い理由には、次のような事情がある。
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中根家は代々平十郎を名乗った旗本で、その祖先である中根正勝は、徳川家家臣として三方ヶ原の戦いにも参戦、天正18年(1590)相模国に1,000石を拝領し、子正時は関ヶ原の戦いに参戦した。
寛永期の中根正盛は大目付や御側御用(のちの側衆)を務め、知行5,000石を賜っている。寛永期の中根正盛は大目付や御側御用(のちの側衆)を務め、知行5,000石を賜っている。
正盛は、3代将軍徳川家光の側近として活躍し、将軍と幕閣との取次、諸大名の監察、評定所出座などの重要な職務を務めた。
その後、正盛は次男正章に1,000石を分知し,長男正致その子正冬は4,000石を知行した。
地方直しの際,元禄元(1688)年12月に武蔵国橘樹郡・荏原郡の知行地に替わり、常陸国茨城郡大泉村・堤上村・本郷村、真壁郡下高田村を拝領した。
(茨木大学デジタルコレクションより)
https://digitalcollection.lib.ibaraki.ac.jp/rare-books/nakane/
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 つまり、中根の子孫が、神奈川県や茨城県に知行を得たためである。

 なお、東京の市ヶ谷に中根坂という地名があるが、これは旗本中根家の屋敷があったためと言われている。
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中根坂の由来は江戸時代にこの坂の西側が旗本中根家の屋敷だったためである。 坂脇の標柱にも、「昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」と書かれている。
http://nakano3bono.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-fc4e.html
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 神奈川県の常泉寺には、旗本中根家の墓がある。
 そこに書かれている中根家の歴史。
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中根正盛は始め二代将軍秀忠に仕え、小姓を経て『大番組』に属しました。 寛永10年(1632)以来、家光の側近たちは老中や『六人衆』となって幕府の日常的政務を処理するようになりました。
……
慶安4年(1651)に起きた由井正雪・丸橋忠弥らの「慶安の乱」では『側衆(そばしゅう)』の立場から正雪らの行動を調査し事件は事前に発覚した。
……
正盛は三代将軍の信任厚く「国家の安否みな正盛について達す」とまで言われた人物で、たいへんな能書家でもありました。

正盛は最後まで自分の言ったことを貫き通す人間だったとも言われている。あの生まれながらの将軍と自負する家光がだめだといっても決して自分の意思を曲げることはなかったそうで、ある時、家光に頼まれた正盛が武士を紹介した。その武士を家光が気に入らなく解雇し改めて武士の紹介を依頼した。しかし正盛は家光が解雇したその武士を再度紹介した。自分の紹介した人物に自信を持っていた正盛の気持ちを察し、家光は正盛の意見を受け入れ、その武士を使ったという話が伝えられている。
(常泉寺)
http://www.jousenji.com/main/history/nakaneke.html
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 ここに書かれているように、由比正雪の反乱を正盛が事前に察知したのは、中根家が服部半蔵の服部家とつながりがあり、伊賀忍者群を使っていたからではないかと思う。
(平忠正の長男の子孫が服部家、七男の子孫が中根家。)

 また、九州の島原の乱では、将軍が命じた討伐隊の話を聞き、正盛が即座にそれはだめだと思い、その部隊を追いかけ、将軍に無断で指導者を入れ替えたという話が「葉隠」に載っている。
 それは、宗教上の反乱は生半可なことでは平定できないことを知っていたからである。
 この乱の平定にも、忍者群が使われた。
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寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発した。中根は配下を派遣して、反乱軍の動きを詳細に調べさせた。討伐上使の松平信綱配下の甲賀忍者の一隊が、一揆軍の立て籠った原城に潜入調査し、城内の兵糧が残り少ないことを確認したという記録があり、これが忍者が合戦で最後に活躍した例である、と言われている[3]。
(wikipediaより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E7%9B%9B
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 徳川300年の平和な時代が無事に続いたのは、当初の中根家の隠れた活躍があったからだとも言える。

(以上、2023年11月に追加)


前書き


 二人の子供が小さいころに、父方の古里である苗木に連れていきたいところだったが、ちょうど次男が小中高とバスケットボールでほとんど休みの日がなかったため、今になってしまった。
 せっかく行くのだから、ついでに先祖の歴史を勉強しておきたいと思い、資料を集めて整理してみた。

 まず、そのころの時代背景から。


摂関政治が二重権力を作る


 今から1140年前の866年、藤原良房が摂政に就任し、摂関政治の基礎を作った。摂関政治は、天皇の支配を名目化し、天皇の后に自分の娘を嫁がせた外祖父が実際の権力を握るという政治形態だった。天皇は幼少のため、外祖父の影響力を排除することができなかった。
 その後、藤原道長は三代の天皇にわたって30年間摂政・関白を務めた。その子頼通も三代の天皇にわたって50年間も政権を握った。しかし、頼通の代に、天皇に嫁がせた娘との間に皇子が生まれず、摂関政治は終焉した。
 こういう歴史の推移を見ると、最盛期と衰退があまりにも近いのに驚かされる。


保元の乱で朝廷が二分


 1068年、藤原氏の外戚を持たない後三条天皇は、荘園を整理し摂関家の財政基盤を切り崩した。また自身が譲位後も上皇として権力を握り、皇室の権力をより確実なものにしようとした。自分が天皇を退いたあと幼い天皇が位につけば、再び外戚が権力を握る可能性があると考えたのである。しかし、この上皇が権力を握る院政がその後の二重権力のもととなっていく。
 今から850年前の1156年、上皇と天皇の権力争いとして保元の乱が起きた。鳥羽上皇は、祖父白河上皇の子とうわさされた長男の崇徳天皇を譲位させ、弟の後白河を天皇にした。これに不満を抱いた崇徳上皇は、鳥羽上皇の死後、後白河天皇を退位させようと兵を集めた。この天皇・上皇の争いに、摂関家藤原氏の権力争い、源氏・平氏の跡継ぎ争いが結びついて、朝廷を二分する戦いに発展した。
 後白河天皇側には、藤原忠通・平清盛・源義朝がつき、崇徳上皇側には、藤原頼長・平忠正・源為義・為朝がついた。勢力的には後白河天皇側が優勢だったらしい。
 源義朝が夜討ちを提案しそれが後白河天皇側の方針になったのに対し、崇徳上皇側では、源為義がやはり夜討ちを提案したにも関わらず藤原頼長に「皇位をかけた戦いにそのような卑怯な真似はできない」と拒否された。その結果、先に夜襲をかけた天皇側が圧倒的に有利になり、戦いは一日で決着を見た。
 戦いは一種の勢いで勝敗が決まることが多い。合戦の経験の豊富な源氏に比べると、合戦の経験のない藤原氏は戦に対する勘がなかったと言ってもよいだろう。


平氏の繁栄と滅亡


 保元の乱で勝利した清盛は、既にその後の源氏と平氏の争いを予測していたように思える。敗れた崇徳上皇方の源為義を処刑するために、自身の叔父である忠正とその子四人を六条河原で処刑した。日本における死刑の執行は数百年ぶりであった。
 その後、勝利した天皇側の源義朝に、戦勝の処遇に対する不満が生じ、1159年平治の乱が起こる。しかし、義朝は敗北し、源氏は滅ぼされる。
 清盛はこのとき徹底して源氏を滅亡させたいと考えていたようだ。しかし清盛の母池禅尼(いけのぜんに)の頼みによって義朝の三男頼朝はかろうじて死刑を免れ伊豆に流される。
 やがて、平氏の横暴に不満が高まり、後白河法皇は息子の以仁王に命じて源氏に挙兵を促すことになる。(1180年)

 以上が、当時の情勢である。(長すぎた)
 


桓武平氏から平忠正までの系図


 さて、ここから先祖の話。(笑)
 以下は、桓武平氏から平忠正までの平氏の系図である。
 中心人物以外は子供の名前が省略されいるが、本当はみんなもっと子沢山である。


 〈平氏(桓武平氏)〉
     桓武天皇
      ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
     安殿親王  神野親王  大伴親王  葛原親王       良岑安世
            ┃     ┏━━━━━╋━━━━━┓    ┃
           正良親王   高棟王   善棟王   高見王  良岑宗貞
                              ┃
                             高望王

    高望王(平高望)
     ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━┓
     国香        良兼        良将  良孫 良広  良文  良持 良茂
     ┣━━━┳━━┓  ┣━━━┳━━┓  ┣━━━┳━━┓   ┃
     貞盛  繁盛 兼任 公雅  公連 公元 将持  将弘 将門  忠頼
     ┣━━┳━━━┓  ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓    ┃
     維将 維敏  維衡 致利  致成  致頼  致光  致遠   忠常
     ┃
     維時
     ┃
     直方

     維衡
     ┣━━━━━━━━━━━┓
     正済          正度
     ┣━━━━━┓  ┏━━┫  
     貞弘    正家 季衡  正衡
     ┃      ┃     ┃
     正弘    資盛     正盛
     ┃      ┃     ┣━━━┓
     家弘    敦盛     忠盛  忠正
     ┣━━┓   ┃     ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     光弘 頼弘 有盛     清盛  家盛  経盛  教盛  頼盛  忠度
     ┏━━━━━━━━━━━┻━━━━━┳━━┳━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
     重盛                基盛 宗盛    知盛 維俊 知度 清房 徳子 盛子 廊御方
     ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┃  ┣━━┓  ┣━━┓
     維盛 資盛 清経 有盛 師盛 忠房 行盛 清宗 能宗 知章 知忠
     ┃           ┃
     六代 (高清)      源智

 


忠正の七男が中根の先祖か


 忠正は、清盛の父忠盛の弟である。
 「日本の苗字七千傑」には、次のような説明と系図がある。

「忠盛の弟、清盛の叔父、右馬助忠正は保元の乱で崇徳上皇方に従い敗戦後、子息等と共に六条河原において斬首される。 孫の長光は乱後、母とともに伊賀に逃れて以後は服部を称する。後裔は江戸幕臣となる。
 ほかの孫衡盛は大和国吉野に居たが、陸奥国岩手郡に下向、戸沢に住して後裔は出羽新庄藩主家となる。
 また寛政系譜の良文流に収める中根氏は、実は保元の乱を避けて三河国道根郷に蟄居した忠正が末男七郎正持であり末裔の正行が松平清康に仕えて中老となり子孫は江戸幕臣となる。」


   ┌長盛──【服部】長光………(系不詳)………義高──義邦──義一──義英─┬義通【服部氏】
   │                                    │
   ├忠綱             【大江】匡衡               ├正路【服部氏】
   │                    │                │
   ├正綱                  ├──┬挙周           ├良恭【服部氏】
   │                    │  │             │
   ├通正    【赤染】節安──時用───赤染衛門└江侍従          └義風【服部氏】
   │                  ↑
   │                  │
   │  (光孝平氏)【平】篤行──兼盛──女子
   │              │
   │            ┌─┘                        ┌伊盛──豊盛─┐
   │            ↓                          │       │
忠正─┼維盛─┬衡盛──【戸沢】兼盛──親盛──克盛──勝盛─┬玄盛──英盛─┬氏盛─┴行盛──泰盛 │
   │   │                       │       │           │
   │   └明広【狛山氏】                │       └…【高松氏】【川井氏】│
   │                           │         【樋口氏】【城取氏】│
   │                           │         【田代氏】     │
   │                           └邦盛【大久保氏】           │
   │                                               │
   │     ┌─────────────────────────────────────────┘
   │     │
   │     └家盛──久盛──寿盛──征盛─┬秀盛──道盛─┬盛安──政盛─┬??定盛
   │                     │       │       │
   │                     └忠盛     └光盛     └─正誠〔新庄戸沢家〕
   │
   └【中根】正持………(系不詳)………正行─┬正信【中根氏】
                       │
                       └正照【中根氏】

 


中根家文書をもとにした系図


 2002年に公開された中根家文書(もんしょ)によると、次のようになっている。(中根家文書は1680年から明治維新まで200年間にわたり約7000点の記録が残されている。岡崎美術博物館で6500円で販売されている)

「其先出自桓武帝第五皇子葛原親王其子高望王始賜平姓、後歴若干世至刑部卿忠盛、其弟曰平右馬介忠正、保元乱忠正為忠盛子清盛被害有子曰乙千代尚幼、叔父額田七郎兵衛密告頼盛卿曰、忠正有雅子君幸憫救焉頼盛為請而赦之、七郎兵衛乃携往三州額田郡養育于家、長後日平右兵衛忠雄、潜居蓋廿四年、治承四年源頼朝起兵於豆州之時欲属頼朝、猶恐吾平氏也、彼却疑我乎、故移居于同国中根村俟時良久村人因号中根殿、子孫以為氏云(古来紋者上羽蝶)、後帰領額田郡築城於箱柳、従夫武威幾耀於隣国、其後十餘世至忠益」

 つまり、平忠正が清盛に処刑されたときにいた幼子(持正)は、叔父の七郎兵衛が平頼盛に頼んで額田郡に逃した。頼盛の母は池禅尼であり、頼盛は、源頼朝を助けるときにも協力したと言われる。額田郡に逃れたあと忠勝(ただかつ?)と名乗り24年間その地に過ごした。その後頼朝が挙兵したとき、忠勝も頼朝に従おうとしたが、平氏であるがためにかえって疑われることを恐れ、そのまま同地に留まりやがて土地の人たちから中根殿と呼ばれるようになった。家紋は揚羽蝶。その後箱柳に城を築き十数世代を経て忠益にいたった。

 その後、忠益は茗荷を家紋にし、茗荷と蝶の二つを家紋として用いるようになった。忠益の子忠良の代に、今川氏と松平氏の圧力を受けて自立を維持できず、初め今川氏に属し後に織田氏に属した。その子忠貞の時代に織田氏を離れ、松平(徳川)に属したと記録されている。

 この結果、修正した家系図が下記のものである。


   ┌長盛 
   │    
   ├忠綱 
   │    
忠正─┼正綱  
   │     
   ├通正   
   │     
   ├維盛 
   │     
   └【中根】(正持)忠雄……(系不詳)……忠益──(正行?)忠良─┬(正信?)忠貞
                                  │
                                  ├(正照)正秋──養子として織田信照(正信・忠實)
                                  │
                                  ├某(幼名喜蔵)
                                  │
                                  ├正澄(幼名新左衛門)
                                  │
                                  ├某(幼名市之助)
                                  │
                                  └某(幼名新平)



 


中根氏の拠点、箱柳城


 忠正には、実は七男忠勝(正持)がいた。(笑)これは、正式の歴史の教科書には載っていない。
 愛知県箱柳町に、箱柳城址があり、そこの説明は次のように書かれている。

「中根氏祖とは平清盛の叔父忠正の七男の七郎正持が保元乱(1156)後、母に倶われて(2才)碧海中根村に遁れ成人して額田郡箱柳村に住し成人に成るまで世話になった中根村の中根を姓にした。
 以来忠良まで14代400年に亘り堂根筋六郷を治め其の間に近郷に拡り此の地方の中根姓の祖で有り箱柳は其の発生の地である。」

 昔のことなので真実はわからないが、父忠正が清盛に処刑され、その後の源平の戦いで平氏が滅ぼされる状況の中で、平氏の末裔であるという事情を隠さざるを得なかったというのはあり得る話である。
 中根家の家紋が丸に抱き茗荷であることを考えると、桓武平氏とのつながりがあることは確かであるようだ。
 また、岡崎藩の中根家当主(明治時代に大分県に移住した)の家では代々、子供の名前に「忠」か「正」をつけるということになっているということである。

 さて、中根忠雄(平忠勝(正持))のあと、詳細は約270年間不明で、1428年箱柳城を中根平右衛門盛清が築城したという記録が残っている。
 その八代目中根肥後守忠良の代は、道根六郷(箱柳・坂田・田口・小呂・岩谷・中畑)を支配した。しかし、駿府の今川氏や岡崎の松平清康(家康の祖父1511-1535)の侵略を受け自立を維持できず、松平氏の臣従となった。これがその後岡崎藩主本多家に仕えた中根家と、江戸で旗本となった中根家(中根主税)の先祖である。
 歴史には、中根正行(松平清康の中老)の子として正信(別名忠良。家康の中老)、正照(別名正秋)が出てくるが、このあたりは同一人物が途中で名前を変えることがあるのでわかりにくい。この忠良は先の忠良とは別人であろう。
 正信(忠良)は1569年今川氏真との掛川の合戦で戦死した。

 苗木の中根家は、この時代に、箱柳から苗木に移った中根家の一族ではないかと考えられる。愛知県岡崎市箱柳町と岐阜県中津川市苗木町の間は、直線で約60キロメートル。高速道路を使えばわずか1時間ほどの距離である。高速道路は使わなかったと思うが。

 「中根地名考」という本によれば、中根という地名の数は全国で茨城県が13ヶ所でトップ、次が愛知県の9ヶ所となっている。岐阜県は現在中津川市に1ヶ所中根という地名があるが、昔は、恵那市岩村町にも中根という字の地名があったらしい。
 この本の著者が愛知県下山村の中根という地名を訪ねたとき、苗字が中根という人がいた。その家を訪問すると、家の山側に立派な墓があり、家紋が丸に抱き茗荷であった。
 ちなみに、中根の中は、真ん中の意味、根は、山の尾根が立ち上がる麓の部分を指すことが多い。尾根の終点は、山にも入りやすく平地にも出やすいので、縄文時代や弥生時代の人にとっては住みやすい場所だったらしい。


箱柳城址。竹やぶの中にあった。よほど関心のある人でなければ訪れないだろう。



箱柳城歴代城主の碑。中根忠良までの名前が見える。



中根家発生の地の説明。道路沿いの看板。隣の電柱が……。(笑)



織田信照が岡崎中根家の養子に


 遠州平野に侵入しようとする武田信玄とそれを防ごうとする徳川家康にとって二俣城は要衝の地であった。南下しようとする武田を防ぐために、家康は二俣城に家臣の中根正信(忠良)の弟正照(正秋)を城代として派遣する。二俣城は堅固な城であったが、信玄が上流にある城の水源を破壊したため落城した。
 二俣城の落城により遠州平野に自由に進撃できるようになった信玄を攻撃するために、家康は浜松城から出撃し、三方ヶ原の戦いで敗北する(1572年)。
 この戦いで正照(正秋)は戦死する。正照(正秋)には子供がいなかったので、家康は織田信秀(信長の父)の十男織田信照を中根家の養子とした。信照は信長の異母弟になる。
 「張州府志」には、「按織田信秀時熱田商家有一女甚美、信秀奪以為妾生子」とあるので、母親は熱田の商家の娘で美人だったらしい(その実家も中根家だったと言われる)。しかし、同書には「土人亦曰、織田越中者天性魯鈍人也」と書かれている(苦笑)。だが、その魯鈍の内容は、「馬が五十匹あると言って、召使に一匹の馬を終日何度も洗わせた」ということだから、これはよく言えば、権力争いに巻き込まれないための作戦だったのではないかと考えられなくもない。
 この中根信照が中根忠実(實)と名乗り、本多忠勝の妹を娶り岡崎藩士中根家の初代となった。忠実は初め家康の子信康に仕えるが、信康の死後家康の直臣に戻る。その後1590年、本多忠勝が大多喜を領有することになった際に、忠勝に付属され、以後代々本多家の重臣となった。この経過を見ると、信照の魯鈍はやはりポーズだったのではないかと思えてくる。


丸に抱き茗荷。こっちが男紋(表紋)



揚羽蝶。こちら女紋(裏紋)。女紋は、女系のつながりを示すらしい。

 


遠山氏と苗木中根家との出会い


 さて、話は一転して遠山氏に。
(以下、出典は「苗木藩政史研究」(後藤時男著)。インターネットの古書店から2500円で手に入れた。本当はもっとずっと高い(笑))

 遠山氏は1330年代に苗木の地に強大な勢力を持っていた。
 遠山直廉(なおかど)は信長の妹を室とし桶狭間合戦(1560年)に出陣し七騎の一人として名をあげた。
 直廉には男子がいなかったため、信長は岩村城主であった遠山友勝を苗木城主に任じた。
 (遠山直廉――友勝――友忠――友政――)
 本能寺の変に際し、信州にいた森長可(ながよし・森蘭丸の兄)は急遽帰国の途についた。遠山友忠と木曽義昌は、この森長可を襲撃しようとした。このため、翌年、森長可は苗木城を攻め、友忠は城を逃れ家康の翼下に入った。当時は、戦国時代の気風が濃かったので、戦いの名分よりも近辺にいる強力な勢力は機会があれば叩き潰すという意味での戦いが多かったのだと思われる。
 遠山氏が森氏に敗れ、この時期に苗木を退いたことにより、その後の秀吉と家康の戦いで、遠山氏は家康側につくこととなった。当時の美濃地方はすべて秀吉側につきその多くが滅亡したことを考えると、遠山氏にとっては偶然が幸いしたと言える。
 友忠の三男友政は、小田原の役(1590年)で井伊直政の配下に付属し、その後榊原康政に付属した。
 この榊原康政は、本多忠勝と同年齢で、ともに旗本先手役に抜擢され活躍し、後に忠勝とともに家康の家臣中第二位の10万石を与えられた。本多忠勝とは仲がよく親友関係にあったと言われる。
 また、榊原康政の家臣にも、中根家があり、1591年に中根伝七郎正重が入間郡に200石与えられたとの記録がある。
 中根信照は本多忠勝の妹を娶り忠勝に仕えた。遠山友政は榊原康政の配下となっていた。また榊原康政には中根家の家臣がいた。このあたりで遠山家と中根家のつながりができた可能性もある。しかし、苗木の中根家はこの時期よりも前から遠山家とつながりがあったという可能性の方が高いようである。
 信長の妹が苗木の遠山直廉の室(お勝の方)となり、信長の弟信照が岡崎の中根家の養子に入った(母の実家が中根であったため)という、この時期の事情を見ると、政略による結婚や養子縁組が多かったことがわかる。
 愛知県・岐阜県にまたがって先祖を同じくするいくつかの中根家があり、そのうちの一つが苗木の中根家であったということになるだろう。


城山大橋から見る木曽川。水はきれいそうだが、泳ぐ人はいない。



苗木城城址入口。ここから頂上の天守閣まで十五分ほどだった。



苗木城大櫓(やぐら)跡。岩と石垣をうまく組み合わせている。



遠山氏、苗木城を奪還する


 1600年、秀吉時代の奉行石田三成らは家康追討を諸大名に告げた。関ヶ原の戦いの始まりである。日本全国のほとんどの大名は、(秀吉)三成側(西軍)と家康側(東軍)に二分された。美濃地方はすべて(秀吉)三成側になった。
 家康は、遠山友政を召請し、美濃国と木曽路の地理を尋ねたところ、友政が詳細に述べたため、鉄砲30挺・玉薬20000発・黄金などを与え先鋒隊を命じた。友政は中津川より攻め上り苗木城を奪還した。友政はこの戦功により旧領を安堵され、近世の大名として再出発することになった。
 苗木藩の家臣は、上級家臣の給人20数名、中級家臣の中小姓50?100数名、下級家臣の徒士50?100数十名で構成されている。慶應2年(1866年)の時点で中根助右衛門が9石2人扶持を与えられ江戸広間取次の家臣となっているという記録があるが、この中根家は当中根家とは直接のつながりはないと思われる。
 江戸には、当時旗本の中根氏がいて、幕府の重要な役職を担っていた。この旗本の中根氏は、中根信照の血筋を引くものである。新宿にある中根坂は、中根氏の住居の名残りである。旗本の中根氏は、1640年、中根正盛の代に神奈川県大和市福田村に領地を与えられた。正盛は三代将軍家光に仕え、「国家の安否みな正盛について達す」と言われるほど信頼されていた。
 幕府との連絡に、幕府の重臣とつながりのある同姓の中根氏が当たったということは考えられることである。
 ちなみに、遠山藩の給人の役職は次のようなものである。家老・城代・用人・側用人・籏奉行・槍奉行・郡奉行・武頭鉄砲方など。
 中小姓の役職は次のようなものである。江戸部屋目付・医師・代官・祐筆・勘定頭・江戸広間取次など。
 徒士の役職は次のようなものである。普請奉行・代官・祐筆・納戸買物方・紙奉行・下広間添番など。
 具体的にどのような仕事かはわからないが、名称からおおよそのことが推測されるようである。


林家とのつながり


 中根家は、彌七郎の代に男子がいなかったため、林惣右衛門の二男忠右衛門(清寧)を養子とした。忠右衛門は瀬戸の庄屋の娘比呂を妻とした。忠右衛門の代にも男子がいなかったため、蛭川村の林久左衛門三男兼次郎を養子とした。
 蛭川村には林姓が多い。林家は上州から来た林三郎太郎を祖としている。上州の林家は、南朝の宗良親王に奉じて全国のゲリラ戦を戦った新田義貞の配下であった。しかし、林家は、もともと四国の河野氏が林と姓を改めたのが起源とされる。河野氏は、宗良親王が四国に来たときに南朝側につき、その後宗良親王と全国の行動をともにした。したがって、林家も、もともとは四国から来て上州に行き、蛭川村に定着したのだと思われる。
 また、加賀に藤原氏を祖とする富樫氏の分家の林氏があり、この林氏も南朝方で美濃に入っている。岐阜県の林姓の多くはこの林氏であると思われるが、蛭川村の林氏とは直接の関係は薄いようである。
 宗良親王が足利側に捕えられたとき、宗良親王とともに戦っていた、纐纈、不破、板津、林の四家は、その子尹良(まさなが)親王を守って蛭川村に移り住んだ。しかし、やがて足利側の知るところとなり、尹良親王も殺害される。主を失った四家は、そのまま蛭川村に定住することとなった。蛭川村には、親王伝説が残っている。また、蛭川村の祭りには南朝文化の名残りがあると言われている。


苗木城千石井戸。浅い井戸だが水が涸れたことがないらしい。実際に深さ50センチほどのところに水が浅くたまっていた。



苗木城馬洗岩。敵陣に水が豊富にあると見せるため、ここに馬を乗せて米で洗う真似をしたと言う。



苗木城の天守閣近くから眺める木曽川。下から攻めてくるのは大変そう。

 


幕末に勤皇派に大転換


 数代にわたり徳川家に仕えてきた大名を譜代(ふだい)大名と呼ぶ。
 苗木藩は譜代大名ではないが、準譜代大名としての地位を与えられていたようで、藩の成立から近世にいたるまで美濃諸藩の中で唯一領主の交代が行われなかった。
 第12代藩主友禄(ともよし)は1864年から1867年までの前後二回幕府若年寄を勤役した。本来譜代大名が行う重職を担当したことは破格の栄進であったが、藩の財政を更に逼迫(ひっぱく)させる一因ともなった。当時は、日本全国のどの藩も財政危機の状態にあった。
 1867年6月、若年寄を退任した友禄は、引き続き呉服橋御門番勤務を命ぜられ江戸に滞留した。しかし同年11月、朝廷政府からただちに上京すべしという内達を受け藩論は動揺した。友禄は、幕府に対して、京都での御用を済ませたあとは幕府に忠節を誓うとして、江戸の勤務を退き、翌1868年明治元年2月9日苗木城に戻った。この半年の動静はきわめてきわどい政治的駆け引きで、友禄の政治的手腕と強運があったからこそできたことであろう。
 友禄が苗木上に到着する直前の2月8日、朝廷から「速やかに上京しなければ厳罰に処す」との通達が東山道諸藩に送られていた。藩ではただちに家老を京都に派遣した。遅延の理由として「病気療養中のため、忌中のため、呉服橋勤務を命ぜられたため」の三点を上げ謝罪するととともに、併せて「1732年に上地された500石の領地は不当であるので返還してほしいという」という嘆願書を出し(よくやる)、飛騨地方の警護を行う旨申し出た。
 苗木城に戻った友禄は家臣一同を集め、勤王を徹底することを施政方針として述べ藩の意思を統一した。2月18日友禄は京都に岩倉総督をたずね藩の事情を説明し、朝廷に忠節を誓うことを改めて明らかにした。
 このように見てくると、遠山家は、織田・武田の中では織田側に属し、家康・秀吉の中では森氏に敗れた事情から家康側に属し、幕末の徳川・朝廷の中では、最後の場面で朝廷側に属したことになる。この事情は、中根家も同じで、選択した側が運よく勝者の側だったということになる。


平田国学に基づく急進的な改革


 さて、外政面ではかろうじて朝廷側に属することで安定を獲得した苗木藩だったが、内政面では、当時の全国の藩同様危機的な財政難に陥っていた。友禄は、人事を一新するために、家老や用人など重臣の多くを解任し、一方で中小姓などで実力のある者を抜擢した。
 抜擢組の筆頭は、中小姓の刀番から大参事となった青山直道である。この時期、中根清浜(助右衛門)は会計幹事・権少参事などの役職を担ったという記録がある。だが、この中根家は姓を同じくするが、直接的なつながりはないようである。
 直道の父景通は学問に造詣が深く、当時儒学に対して台頭しつつあった平田篤胤の国学を学び門人となった。平田国学は、よく言えば純粋な過激思想で、この国学の政治性が遠山藩の青年層に大きな影響を与えた。明治3年(1870年)藩主の友禄も平田国学に入門し、苗木藩は国学一色となった。
 これを快く思わない元給人層を中心とする守旧派は、青山藩政に対して抵抗を試みたが、逆に流罪・蟄居などの処断を受け青山藩政はより一層強固な基盤を確立した。
 しかし、財政の再建は遅々として進まず、藩は士族の家禄奉還と帰農を断行する。まず直道ら大参事四名が世襲家禄を奉還し、農籍に復することを苗木藩知事(藩主)に願い出た。その後、中級・下級の士族もそれぞれが自主的に家禄を奉還することを願い出る形で士族から農民へとなっていった。このリストラによって藩財政は、14万両の借金が5万両に減るなど大きく好転した。
 明治維新という言わば革命が、ヨーロッパ諸国のように流血革命とならず速やかに進行したのは、旧支配階級である武士が自らの倫理観で権力を放棄したという事情があったからだと思われる。(ただし、士族層には改革に対する不満は多く、後に復禄・士族復籍の運動が起きているが)
 家禄奉還と同じ時期に、藩による廃仏毀釈も断行された。これは、藩内が平田国学で統一されていたという特殊な事情によるものである。仏像や仏具を一点でも所持しているものは入牢させられるなど徹底した政策で、わずか二ヶ月の間に苗木藩の領内15ヶ所の寺はすべて廃寺となった。
 明治4年(1871年)廃藩置県により、苗木藩は苗木県と解消され藩政は最終的に解体した。同年府県廃合によって苗木県は岐阜県に併合された。

 その後、平成を迎える。(早すぎるって)
 


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