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言葉の森新聞2011年9月3週号 通算第1192号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.9月19日(月)・23日(金)は休み宿題
  ■2.新学期の教材を発送します
  ■3.対話のある勉強
  ■4.国語力と作文力のつけ方(家庭での読書と対話)
  ■5.無の文化と教育2のつづき
  ■6.無の文化と教育3
  ■7.無の文化と教育4
 
言葉の森新聞 2011年9月3週号 通算第1192号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.9月19日(月)・23日(金)は休み宿題 枝 4 / 節 3 / ID 16612
 9月19日(月)・23日(金)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
枝 6 / 節 4 / ID 16613
作者コード:
2.新学期の教材を発送します 枝 4 / 節 5 / ID 16627
 新学期の教材を9月16日(金)〜22日(木)に発送する予定です。
 国内の生徒で27日になっても届かない場合はご連絡ください。
 住所シールと項目シールも同封します。
枝 6 / 節 6 / ID 16628
作者コード:
3.対話のある勉強
枝 4 / 節 7 / ID 16614
 7月に、言葉の森の生徒の保護者の皆様に、家庭での自習や予習の仕方を説明するプリントをお送りしました。
 この予習法の要点は、次の週に書く課題を子供が事前に読んでおき、家庭で子供がお父さんやお母さんにその内容を説明するというものです。
 このやり方で予習を取り組む家庭が増え、子供たちの作文が充実してきました。
 言葉の森の感想文課題は、かなり難しいので、感想文の週には事前にその長文を何度か読んでいないと、先生の説明を聞いてもなかなかうまく書くことができません。事前に、家庭で子供からお父さんやお母さんに説明する形にしておくと、それだけで長文の理解が深まります。他人に説明するということは、自分なりに全体像を把握していないとできないことだからです。
 子供からの説明を聞いたあと、お父さんやお母さんがその説明に対して、似た例などのアドバイスができればなおいいのですが、そこまでしなくても、子供が自分の言葉で説明するだけでも、内容理解は格段と深まります。
 そして、こういう形での親子の対話というのが実に楽しいのです。普通、親子で話す話題というと、学校の勉強のことや近所の話題など身近なことが多く、考えながら話すということはあまりありません。ところが、長文をもとに似た例や感想などを考えて話すと、親子の間で知的な対話が生まれるのです。この知的な対話の時間は、知的な読書の時間と同じ意味があります。こういう対話を毎週繰り返していけば、子供たちの思考力はかなり深まります。
 なお、言葉の森ではfacebook上で、学年別の予習室というグループを作り、似た例のヒントとしてどんな話をしていくかという話題を交換しています。これは、課題のヒントとは別のもので、対話のヒントというようなものです。
 例えば、中1の9.1週の課題では、次のような記事を載せています。
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 中1の9.1週「私はは二十年ほど前から」は、現代の管理化された社会を考えるいい機会になると思います。
 お父さんやお母さんが似た話を話す場合は、こんな感じです。
 「昔は今ほど、社会が管理化されていないから、もっとのびのび暮らしていたような気がするなあ」
枝 6 / 節 8 / ID 16629
作者コード:
 
枝 61 / 節 9 / ID 16615
 例えば、子供時代にいろいろないたずらをしたと思いますが、社会がそういう子供のいたずらを大目に見る風潮がありました。
 今は、大人の社会でも、例えば「シートベルトの着用義務」とか、「喫煙の制限」とか、「個人情報の保護」とか細かいルールが多くなりました。
 ルールがあること自体はいいことですが、裁判員制度も含めて、国民を家畜化しようとしている感じがしないでもありません。
 もっと自由にのびのび生きられる社会にしたいですね。
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 同じく9.2週の対話のヒントはこんな感じです。
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 9.2週の課題は、「何ごとぞ花見る人の長刀(感)」です。
 お花見をする習慣というのは、日本と北朝鮮の一部にあるようです。世界中で花見をする文化というのは限られているのでしょう。
 ということで、ひとつはお花見の思い出です。花見とは名ばかりで、最初は「わあ、きれい」などとひとことぐらいは言いますが、あとは花はそっちのけで飲めや歌えやになっていたと思います。そして、そのうち桜の木に登る人がいて(笑)。桜と柿は、折れやすい木の代表選手ですから、この機会に、子供に「桜の木には登らないように」と言っておくといいと思います。ことわざにも、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というのがあります。桜は剪定などしなくても、どんどん枝を落としていくので切る必要はないということです。
 と脱線しましたが。(^^ゞ
 日本人どうしは、同じものを見るという形で心を共有します。テレビを見る、夕焼けを見る、映画を見る、初日の出を見る、月や星を見る、というように、並んで見るだけで心が通じ合います。お父さんやお母さんの最初のデートの場面を思い出してみましょう(笑)。
 でも、欧米人は違います。面と向かってしゃべり合わないと、コミュニケーションができないのです。かわいそうですね。ってことないか。
 相撲の見物などもそうです。取組を見るよりも、その間の仲間どうしのお喋りが楽しいというところがあります。
 今、学校で私語が多くて先生が困っているそうですが、これも、日本文化だからこそなのかもしれません。
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 facebookの予習室の中で、お父さんやお母さんどうしの対話が生まれるというのが、この予習室の目指しているイメージです。
 家庭の予習では親子の対話、facebookの予習室では親どうしや親と先生の対話、そして、将来計画しているfacebookの発表会では、子供どうしの対話が生まれるようにしていきたいと思っています。
枝 6 / 節 10 / ID 16630
作者コード:
4.国語力と作文力のつけ方(家庭での読書と対話)
枝 4 / 節 11 / ID 16616
 言葉の森の体験学習を希望される保護者の方から、「国語だけが苦手なんです」というような質問をよくいただきます。
 国語力を向上させるコツはあるのですが、多くの人が勘違いした勉強の仕方をしています。なぜ勘違いするかというと、今、学校や塾で評価される国語力というものが、問題を解くような形で行われていることと関係があります。
 国語のテストを受けて、その点数が低かった場合、ほとんどの人は、その点数に目を向けて、点数をよくするためにはどうしたらよいかということを考えます。その結果、国語の問題を解くような形の勉強をしてしまうのです。
 数学や英語や他の教科の勉強であれば、問題を解くような形の勉強がそのまま次のテスト対策にもなりますが、国語の場合はそうではありません。国語の問題を解いて、それができたからといって、次の国語の問題ができるとは限らないからです。
 つまり、国語の実力というのは、もともと問題を解くテストのような形で測られるものではないということです。
 では、国語の実力は、どういう形で測られるかというと、いちばん確実なのは、話を交わすことによってです。こちらの言っていることを的確に理解して、自分なりの考えを述べられる子は、国語力のある子です。それは、口数が多いということとは別で、話すことは少なくても、しっかりと受け答えのできる子は国語力のある子なのです。
 しかし、学校ではそういう形のテストはできません。そこで、やむをえず問題を解く形のテストをしているということなのです。他の教科は、問題を解くことがそのまま勉強の中身ですから、問題を解く形の勉強でいいのですが、国語は、問題を解く勉強をしても、実力はつかないのです。
 では、どういう形で実力がつくかというと、それは、読書と対話によってです。しかし、易しい読書と易しい対話では、その易しさのレベルまでしか力はつきません。難しい読書と難しい対話になるにつれて、その難しさに応じて国語力がついてくるのです。
 人間の頭は、難しいものでも、繰り返し接することによって自然にその内容を消化する力を持っています。この繰り返しというのが勉強の基本です。しかし、それは繰り返しやって何かを覚えるという勉強ではありません。
 子供に読書をさせるとき、お母さん方の中には、ちゃんと読めているかどうか問題を出したがる人がいます。そういうふうに、何かを覚えているかどうかというのは、国語力ではなく、もっと表面的な単なる記憶力です。
 国語力というのは、難しい文章を繰り返し読むことによって、その内容を丸ごと理解する力です。理解したものごとは、必ずしもその内容を正確に反復できるわけではありません。逆に、自分なりの言葉で解釈しながら説明するので、書いてある内容のとおりではないことの方が多いのです。
 国語力をつけるいちばんいい方法は、家庭で毎日、難しい文章を読み、できればそれをもとにお父さんやお母さんと難しい対話をすることです。国語力は、家庭生活の中でついていきます。
 言葉の森の勉強法は、この家庭学習を生かす形で行う作文の勉強です。だから、作文力をつける中で国語力もついてくるのです。(つづく)
枝 6 / 節 12 / ID 16617
作者コード:
5.無の文化と教育2のつづき
枝 4 / 節 13 / ID 16618
 無の文化では、自分というものは世界のさまざまな面から既定された関係であって、それ自体が実体のある何かではないということを暗黙の前提としています。同様に、対象も実体ではなく関係にすぎません。色即是空という言葉は、日常生活で使うことはあまりありませんが、日本人は誰でも心の中で物の実体は空であることを感じています。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という方丈記の一節に多くの人が共感するのは、河や人生は実体ではないという感覚を持っているからです。
 ところで、日本の江戸時代では、教育における反復の手段に、素読や手習いという主に言語的なものを使っていました。素読は、読む力、聞く力、話す力を必要とします。手習いは書く力を必要とします。これだけで国語教育がすべてカバーできていたのです。(つづく)
枝 6 / 節 14 / ID 16619
作者コード:
6.無の文化と教育3
枝 4 / 節 15 / ID 16620
 素読には、孔子の「読書百篇意自ずから通ず」と同じような学習法がとりいれられています。大事なのは、繰り返し読むことであって、読んで理解できないところを誰かに解説してもらうという学習法ではありません。
 読んでわからないところを解説してもらうと、わかったような気がしますが、その理解は表面的なものにとどまります。
 繰り返し読むことによって全体を把握し、それが自分の成長ととともに次第に深まっていくというのが素読の学習法です。
 江戸時代の寺子屋の学習の中心は、日本語の読み書きの学習でした。今の教科で言えば、国語の時間がほとんどで、そこに算盤という計算の練習が加わったような形でした。
 読み書きというのは、社会生活を行う上で欠かせないものですが、特に読み書き教育が重視されたのは、それが人間の成長と深く結びついていたからです。
 教育において、言語教育を重視するのは、言語脳が人間の進化の最もあとから発達した機能だからだと考えられます。
 教育の分野には、音楽教育、運動教育、絵画教育などもあります。しかし、それらの教育では、個々の分野の教育にとどまり、全人的な教育には広がりません。
 言語教育は、言語の習得にとどまらず、人間の成長全体に影響する教育になります。それは、最も新しい言語機能が活性化することによって、脳の他の機能も活性化するからです。
 アメリカの教育実践で、脳に先天的な異常があり身体の動作が不自由だった子が、幼児期に読み書きの練習をすることによって身体機能までも回復したという報告があり、再現性が確認されています。
「赤ちゃんに読みをどう教えるか」
http://www.amazon.co.jp/dp/4925228013
 言語の教育は、それだけ教育の重要な柱なのです。
 ところが、これまでの欧米流の有の文化の言語教育は、一般に次のような形で行われていました。
 まず最も単純で易しい文字を覚えます。次に、単語を覚え、短い文を読み、その文が理解できるようになったら、長い文章を読み、次第に難しい文章を読んでいくという流れです。易しいものから難しいものへ少しずつ進んでいくという方法です。
 これに対して、無の文化の言語教育は、正反対とも言っていいものです。
 まず、難しい漢字が使われていて内容も難しい論語などのテキストを、そのまま丸ごと音読します。そして、それを暗唱できるまで繰り返し読んでいくのです。文章の内容の理解とは無関係に、ただ声を出して読み続けることが素読という学習法です。
 手習いも同じです。ただ手本となる文字を何十回何百回となぞり書きするだけです。その手本となる文字は、ひらがなについては「いろは」、漢字については千字文という中国の詩などでした。内容が子供向けかどうかという配慮などはなく、大人の社会に通用しているものをそのまま丸ごと自分のものにすることが求められたのです。
 欧米の有の文化の教育法では、子供向けの教材が必要になります。そして、その教材をどういう手順で発展させていくかというカリキュラムが必要になります。すると、そこで、教材とカリキュラムに精通した先生が必要になり、先生の教える場所としての学校が必要になります。
 その結果、欧米の教育は、金銭的な余裕のある一部の上流階級の子弟だけに限られたものになりました。欧米では、教育を受けた人だけが社会を動かすエリートで、教育を受けない人は家畜と同じようにただ受け身で命令を聞く存在であればよいと思われていたのです。そして、その文化は、今も続いています。
 これに対して、日本の無の文化の教育は、教材もカリキュラムも先生も学校も必要ありませんでした。大人は、自分が子供のころ習って身についている「いろは」や論語を、同じようにただ子供に伝えればいいだけでした。ただ、ある程度分業した方が能率がいいからという理由だけで、寺子屋というシステムができていたのです。決して、寺子屋方式という教材、カリキュラム、先生、教室が教育に欠かせなかったわけではありません。これが、欧米の教育と日本の教育の大きな違いで、この違いが、欧米と日本の大衆の識字率の驚くほど大きな差を生み出していたのです。
 日本の教育では、教育はエリートだけではなく、誰もが等しく同じように受けられるもので、反復して曇りを拭い取るという同じ教育法によって、誰でも同じように本来の人間としての能力を発揮できるようになると考えられていました。
 欧米流の有の文化の教育は、今の世界の教育の主流です。子供が学びやすいように、学年別に細分化された教材を作ります。子供がつまずくところは更に細分化して教材を完備します。そのようにして、大量の複雑化した教材に囲まれて勉強する形なので、学校と先生がなければ教育が行われないと考えてしまうのです。
 日本の無の文化の教育は、学校や先生がなくても成り立ちます。吉田松陰は、下級武士の子で貧しかったので、山の畑で父の農業を手伝いながら勉強しました。
 欧米では、学校に行けないということは、そのまま教育を受けられないことを意味していました。日本では、学校に行こうが行くまいが、家庭の生活の中で教育を受けることができたのです。(つづく)
枝 6 / 節 16 / ID 16621
作者コード:
7.無の文化と教育4
枝 4 / 節 17 / ID 16622
 もし、私たちが今突然、学校も先生もいない中で、もちろんお金もなく、一日中働きながら子供の教育をしなければならなくなったらどうするでしょう。私だったら、自分の頭の中にある文章を、子どもにも同じように唱えさせる形で子供の教育を行っていきます。
 実は、これが古代からどの民族も行ってきた原初的な教育法なのです。古代の民族は、口から口へと伝承を伝える形で子供たちの言語教育、つまり人間として成長するための教育と、民族の文化教育を行ってきました。伝承するテキストは、ひとつはその民族の昔話で、もうひとつは宗教の教典でした。
 有の文化の教育が成立する前は、どこでも自然に無の文化の教育が行われていたのです。
 ところが、有の文化の発想は、反復するという方法よりも、何を反復するかという教材の方に目を向けます。しかも、その教材が宗教の教典になると、教典の内容を覚え理解することが教育の目標のようになってきます。
 そのようにして、世界の無の文化の教育の多くは、有の文化の教育によって駆逐されていきました。しかし、広大なインドや中国の一部と、海によって隔てられた島国の日本には、無の文化の教育がそのまま残っていったのです。
 それでは、無の文化の反復する教育には、どのような効果があるのでしょうか。それは、有の文化の理解し身につける教育よりも効果があるのでしょうか。(つづく)
枝 6 / 節 18 / ID 16623
作者コード:
枝 9 / 節 19 / ID 16623
 
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